第18章 樹洞の灯
待合室へ戻ると、謁見前に脱いだ灰緑色の外套が、衣桁に掛かっていた。
肩へ羽織る。慣れた重みが戻り、ようやく息がつけた。
グリンは新しいローブを整える間に、エルモンド商会へ使いを出すという。
「待ち合わせは、中央広場で」
「かしこまりました。返答があり次第、お伝えします」
グリンが手配へ戻ってしばらくすると、侍女が折り畳んだローブを運んできた。
色は、墨を溶かしたような濃緑。
遠目には地味で、街中でも景色へ馴染みそうに見える。ただし、折り畳まれた背の部分には銀糸が覗いていた。
「女王陛下より、ネイル様へとのことです」
侍女が差し出したローブを、ネイルは両手で受け取った。
指先に触れた表地は光を返さず、内側は薄くなめした革のように滑らかだった。掌で一度撫で、ネイルはすぐに頷く。
「お着替えになりますか」
「着替える」
侍女が廊下へ下がるのを待って、ネイルは留め具を外した。
灰緑色の外套を脱ぎ、新しいローブへ腕を通した。白い髪を内側へ収め、大きなフードを被る。顔立ちは濃い影へ沈み、滑らかな裏地が頬へ触れた。
気持ちがいい。
古い外套をパレードの異空間へしまい、ネイルは扉を開けた。
「着心地はいかがでしょう」
「うん。これ、ずっと使う」
(機嫌を直すのが早すぎないか)
(それとこれは別だから)
侍女は、明朝グリンが迎えに来ることと、リリィが一時間後に中央広場で待つことを告げた。
「もう、返事が来たの?」
「はい」
やはり、王城は何でも早かった。
ネイルが礼を告げると、侍女は一礼して持ち場へ戻っていった。
待ち合わせまで、ネイルは窓下の修練場を眺めた。
前列が開けば後列の術が通る。一人の足が止まると、後ろにも僅かな遅れが生まれた。
ローブの袖を撫でていた指が止まる。ネイルは窓へ少し近づき、その一人が動き直すのを待った。
◇
中央広場へ着くまで、ネイルはフードを目深に被っていた。顔が隠れるだけで、少し安心できる。
同行したグリンは、食事中は距離を置き、帰りに声をかけてほしいと告げた。
「ずっと、いるの?」
「陛下から、無事に王城までお送りするよう申しつかっておりますので」
ネイルの肩が少し落ちる。グリンは数歩離れた場所へ下がった。
ネイルは噴水の近くでリリィを待つ。
ネイルの背を見た年配のエルフが姿勢を正し、一礼した。それを見た者たちも次々に道を譲り、人の流れがネイルの前だけ分かれていく。
理由の分からない本人が固まっていると、人垣の向こうから声が届いた。
「ネイルちゃん!」
リリィが何度も頭を下げ、人の間を抜けてきた。
「これ……何の騒ぎ?」
「分からない」
リリィは広場を見回し、少し離れて立つグリンにも目を留めた。
「私と離れた後、何があったの……?」
「試練だよ」
「試練」
「うん」
あまりに力のない声だったため、リリィは堪えきれずに笑った。
「詳しいことは、ご飯を食べながら聞くね」
「長くなるかも」
「じゃあ、前に話してたお店にしよう。百年前の」
「ある……らしいけど」
「それなら、確かめに行こう」
リリィに促され、二人は中央広場を離れた。
けれど、広場を出ても、背の紋章へ気づいた者たちが道を譲り、一礼する反応は変わらない。
やがてリリィが、ネイルへ身体を寄せた。
「さすがに、ちょっと怖いわ」
「ぼ、僕も」
「本当に何もしてないの?」
「うん」
リリィはネイルの背後へ回り、足を止めた。
「あれ。ネイルちゃん、ローブ変わった?」
「そう。気づいた?」
それまでより少しだけ高い声で、ネイルがすぐに振り返る。
食い気味の返事に、今度はリリィが驚いた。
「う、うん。見たことないローブだったから。どこで買ったの?」
「もらったんだ。リリィも触る?」
ネイルは嬉しそうに腕を差し出した。
リリィが恐る恐る袖へ触れる。
指で一度撫でただけで、表情が変わった。
「これ、すごく高いやつじゃない……?」
「そうなの?」
「誰にもらったの?」
「ルーナさん」
「ルーナ……さん?」
リリィの顔が引きつった。
触れていた手が、ゆっくりとローブから離れていく。
「ネイルちゃん。それ、女王陛下から直接もらったの?」
「うん」
「じゃあ、この騒ぎの原因、それよ」
「みんな、ローブの価値が分かるってこと?」
「素材じゃなくて、背中」
ネイルは首を捻り、手を後ろへ回した。指先に、刺繍の僅かな凹凸が触れる。
「ユグドラシルの枝を囲む銀の紋章。王家の紋章よ」
「これが?」
「少なくとも、王家の庇護を受けた客人だと思われるわ。みんなが道を譲るのも、それが理由よ」
ネイルは固まった。
地味な色と深いフードに安心し、肌触りばかり気にしていた。肝心の背中は、一度も見ていない。
(ようやく気づいたか)
(知ってたの?)
(主が何に気づかないのか、眺めていた)
(今日、だめな日だ)
ネイルは周囲へ目を向けた。
少し離れた場所で、こちらを見ながら立ち止まっている者がいる。
グリンは護衛として距離を保ったままだが、そのさらに外側にも、護衛らしい気配が二つあった。
これ以上、このまま歩き続ける気にはなれなかった。
ネイルは小さく息を吸い、隣のリリィにも聞き取れないほど小さな声で技能の名を呼ぶ。
「《薄影》」
姿はそのままに、集まっていた意識が輪郭の上を滑り始めた。こちらを見ていた者が歩き出し、視線は店や通りの先へ移っていく。
数十秒もすると、二人の周囲だけが急に静かになったように感じられた。
「急に静かになったね」
「ま、まあね」
リリィは不思議そうに周りを見たが、それ以上は尋ねなかった。ネイルも説明しなかった。
少し離れていたグリンの視線だけは、一度滑った後、すぐ濃緑のローブへ戻ってきた。
歩き出そうとしたリリィへ、ネイルはもう一度、袖を差し出した。
「もう、触らないの?」
「だって、女王陛下から頂いたものでしょ」
「でも、僕のだよ」
リリィは差し出された袖と、フードの奥を見比べた。
「……そうね」
今度は指先だけでなく、掌でそっと撫でる。
「やっぱり、気持ちいい」
「うん」
ネイルは頷いて袖を下ろした。手首に触れる裏地は、やっぱり気持ちがよかった。
「『樹洞の灯』は、こっちだよ」
「どんなところ?」
「静かで、人もあまり来ない。『深樹の雫』っていう、少し苦くて香りの残るコーヒーがある」
「ネイルちゃんのおすすめね」
「うん」
ネイルの足取りも軽くなった。
二人は脇道へ入り、露店の声が枝葉の音へ変わるまで進んだ。
何人もの大人が手を広げても囲みきれない古木。その裏へ回ると、張り出した根と自然の窪みの間に、小さな木の扉があった。
初めからそこにあった樹洞へ、扉だけをそっと添えたような店だった。看板はなく、狭い窓から橙色の光だけが漏れている。
ネイルは足を止めた。
百年前と同じ場所に、灯りがある。
「ネイルちゃん、よく見つけたね」
「本当に、たまたまだったんだ」
フードの奥で柔らかくなった声に、リリィも小さく笑った。
「私一人だと、次は見つけられないかも」
「そうなったら、また案内する」
「……本当?」
「うん」
ネイルは小さな取っ手へ手を掛けた。
扉を開くと、頭上の小さな鈴が、カランと澄んだ音を立てた。
外の涼気を押し返すように、温かく香ばしい空気が流れてくる。
「いらっしゃいませ」
店の奥から届いた穏やかな声を、ネイルは覚えていた。




