第1章 静かな日々の終わり
「昇格はしないよ」
「まだ、おはようも言ってないんだけど」
受付のユウリは、差し出しかけた書類を手にしたまま笑った。
ネイル・エクセリアは黒いフードの奥から、その紙を見ていた。前にも見た。表題も、最後に署名する欄があることも覚えている。
「おはよう、ユウリ」
「おはよう。じゃあ、Aランクへの昇格について──」
「しないよ」
書類が、そっとカウンターへ伏せられた。
「ネイルちゃん。コーネリア近郊の魔王領で、竜の騒ぎを収めたでしょ? あれ、Sランク相当の実績なんだよ」
「受けたのは、Bランクの調査だよ」
「依頼票の話じゃなくて。いつまでBランクでいるつもり?」
「今のままで困ってないから」
「もう少し考えてもいいと思うんだけどなぁ」
「国からの要請、断れるようになった?」
「そこは変わらないけど」
「じゃあ、やっぱりBでいい」
ユウリは書類へ目を落とし、諦めたように息をついた。
人間領レグナリアの国境都市、コーネリア。
朝の冒険者ギルドには、依頼を探す者と報告を終えた者の声が入り交じっていた。隣の窓口では、鎧姿の青年が身を乗り出し、報酬の入った袋を受け取っている。
ネイルの前にあるのは、署名すれば仕事の増える紙だった。
Aランクになれば、国からの要請に応じる義務が生まれる。休むつもりの日にまで呼ばれては困る。Bランクのままなら、働く日も、受ける依頼も、自分で決められた。
「今日は、何を受けるの?」
「薬草採取。森の浅いところの」
「そっか。まだ残ってると思うよ」
「ありがとう」
ネイルが離れると、ユウリは書類を脇へよけた。
(また断ったな)
背負った黒い杖から、声が届いた。
耳ではなく、頭の内側へ直接響く声だ。振り向かずに答える。
(何度聞かれても同じだよ)
(断るために通っているようなものではないか)
(依頼を受けに来てるの)
(薬草を摘みに?)
(薬草も、誰かが摘まないと困るでしょ)
キヒヒッ、と笑いが返ってきた。
カオス・パレード。古びた杖の姿をした、長い付き合いの相棒だった。
ネイルが面倒に巻き込まれると、たいてい喜ぶ。昇格を断ったことも、本人より惜しんでいるに違いない。
掲示板の前には、すでに何人かの冒険者がいた。
大柄な男が一人、依頼票を剥がして仲間のもとへ戻っていく。空いたところへ入りながら、ネイルはフードの縁に触れた。
顔と長い耳は隠れている。黒い外套に、小柄な身体。杖を背負ったエルフが一人、誰の目も引かずに立っていた。
その姿に合わせて、周囲の魔素にはごく薄い揺らぎを混ぜてある。
何もしなければ、静かすぎる。感知に優れた者には、かえって不自然に映るのだ。
普通に見せるため、わざと不完全にしておく。
掲示板を見上げる。
街道の護衛。畑を荒らす魔獣の討伐。荷運びの手伝い。
薬草採取の紙は、端の方に残っていた。
森の浅い場所で、指定された薬草を集める。一人で終わる仕事で、報酬も悪くない。
ネイルは手を伸ばした。
その指が、隣の紙の前で止まる。
アルフヘイン。
行先の欄に、その名があった。
紙の上を視線で戻り、依頼主と内容を確かめる。
エルモンド商会。商隊護衛。
出発地はコーネリア。目的地は、やはりアルフヘインだった。
(……どうして、ここにあるんだろう)
(商隊が行くからだろう)
(それは分かるよ)
故郷を離れてから、百年が経っていた。
人間領での暮らしに、不自由はなかった。仕事はある。好きな時に休める。フードを被っていても、顔を見せろと追いかけてくる者はいない。
わざわざ戻る理由はなかった。
それなのに、薬草の依頼票へ伸ばした手を戻せずにいる。
故郷で、今の偽装が通じるだろうか。
ただのエルフではないと気づかれたら。顔を覗き込まれ、答えたくないことを尋ねられたら。
ネイルは手を下ろした。
(面倒そう)
(うむ)
(そこは否定しないんだ)
(だからこそ、行くべきだ)
杖の声が弾んだ。
聞く相手を間違えた、とネイルは思った。毎度のことだった。
(今日は、薬草でいいと思ってたんだけどな)
(ならば、その紙を取ればよい)
隣を見た。
薬草採取の依頼票は、すぐ手の届くところにある。
誰かと相談する必要も、歩調を合わせる必要もない。受け慣れた仕事だった。
けれど、明日も同じ紙があれば、きっとそちらを選ぶ。
その次も。
(主)
(なに)
(他の者が取ってしまうぞ)
思わず、アルフヘイン行きの紙を押さえた。
背後では、二人の冒険者が別の依頼を見比べているだけだった。
(……パレード)
(我は、取られたとは言っていない)
指の下で、紙が少しだけ曲がっていた。
ネイルはそれを伸ばし、留め具から外した。
(里へ戻るって決めたわけじゃないから)
(ほう)
(商隊を送り届けるだけ。面倒になったら、また離れればいい)
(我に説明せずともよい)
ネイルは答えず、依頼票を持って受付へ戻った。




