プロローグ
「ここまで、よく来たね」
開いた扉の向こうに、男が立っていた。
右手に握った剣が燭台の火を受けて煌めいている。左の肩当ては失われ、額から流れた血が顎まで伝っていた。こちらへ踏み出した足が、床の硝子を踏む。
その後ろから来る者はいなかった。
左右には太い石柱が並び、奥の数本は途中から折れていた。崩れた天井の下で、石の粉がまだ舞っている。
「ちょっと待って」
剣を構えかけた男へ、片手を上げる。
「この子に、お使いを頼むところなんだ」
男の動きがそこで止まった。
肩にとまっていた拳ほどのコウモリが、顔を寄せてきた。小さな鼻先が頬に触れ、そのまま離れようとしない。
指で頭を撫でると、羽が少しだけ開いた。
「頼んだよ」
黒い杖を差し出す。コウモリはようやく肩を離れ、小さな脚で杖を掴んだ。
窓際まで飛んだところで、一度だけこちらを振り返る。
男の目はその脚に下がる杖を追っていた。
僕が手を振ると、コウモリは窓の外へ向き直った。
その背へ男が剣を振るう。刃から放たれた白い斬撃が、窓へ走った。
「それはダメ」
斬撃の横へ左手を向け、黒い魔力を一点に集める。白い光がそちらへ引かれるように曲がり、窓の脇の壁を抉った。
砕けた石が床へ落ちる中、コウモリは黒い杖を下げたまま割れた窓を抜けていく。
男はその姿が見えなくなるまで窓の向こうを見ていた。
「何をした」
「さっき言ったでしょ。お使いだって」
こちらへ向き直った男が、両手で剣を構える。
「ここで終わらせる」
「その身体で?」
「そのために来た。ほかに、果たすべき使命はない」
柄を握る指の付け根が布ごと赤黒く濡れている。それでも、こちらへ向けた切っ先は揺れなかった。
腰の剣を抜く。
「分かった」
言い終える前に、男が床を蹴った。振り下ろされた剣を受けると、腕が痺れるほどの衝撃が走る。
剣を押し返し、空いた左手を男へ向けた。
砕けた硝子が床へ押しつけられ、男が片膝をつく。鎧が軋み、その足元から石床にひびが広がった。男は剣を突き立て、倒れかけた身体を支える。
「……重力か」
「うん。まだ立てる?」
男は剣に体重を預けて立ち上がろうとした。だが肘が折れかけ、膝は床から離れない。
それでも顔を上げ、ひび割れた足元の向こうに目を向けた。そこにはまだ壊れていない床が残っている。
突き立てた剣に魔力を込めると、刃が白く輝いた。その光が足元で弾け、男自身を支えていた床を砕く。
身体が沈むと同時に、男は穴の縁へ手を掛けた。僕が左手を向け直すより早く、残った床を蹴って横へ転がり出る。
男は立ち上がるなり剣を振るった。刃から飛んできた光を薄紫の障壁で受け止めると、白く散った光の向こうから男が迫る。
二度の突きで障壁が破られた。解けていく紫の膜越しに男の剣を受けると、すぐそばに血走った目があった。
鍔の向こうで、肩当てを失った肩が赤く濡れている。押し合うたびに布の下から新しい血が滲んだ。
そこに目を留めた途端、男の顎に力がこもった。
「退けとでも言うつもりか」
「言っていないよ」
「なら、その顔をやめろ」
押し込まれた刃をかわすと、外套の端が切れた。男が踏み込んでくる。続く一撃を弾き、僕は床を離れた。
追ってきた剣が足元を抜け、見上げてくる顔が遠ざかる。男の頭上まで浮かび上がると、床に開いた穴の底まで見えた。
左手を開くと、紫色の障壁が僕を頭から足の先まで丸く包んだ。その外側に同じ色の小さな光がいくつも灯り、周囲の柱を淡く照らす。
「これも、避けられる?」
男は浮かんだ光へ目を走らせ、剣を握り直した。
「……撃ってみろ」
指先を向けると、光の一つが細く伸びた。男が横へ跳び、今しがた立っていた床が吹き飛ぶ。
爆風が広間を駆け抜けた。砕けた石が柱を叩き、残っていた窓硝子が外へ飛び散る。煙の下には、人がすっぽり入るほどの窪みが口を開けていた。
男は着地と同時に身を低くし、床を這うように駆けていく。
逃れる背中へ、指先を向け直した。
魔力を凝縮した光が幾筋も降り注ぐ。男の足跡を追って石床が次々と抉れ、爆音が広間を満たした。天井の欠片が落ち、砕けた石が吹き上がる。その間を男は振り返りもせずに走り抜ける。
紫の光が迫ると、男は床に片手をついて横へ転がった。顔のあった場所を光が抜け、背後の壁が弾け飛ぶ。
僕のところまで届いた石片が紫の障壁に弾かれる。揺れる膜の向こうへ目を凝らすと、煙を抜けてくる男の姿が見えた。
「……よく避けるね」
「避けるだけだと思うな」
男は折れた柱の陰へ滑り込んだ。
指先を柱へ向ける。続けて放った光が柱を砕いた時には、男はその側面を蹴って宙へ飛び出していた。
噴き上がる煙の上に白く輝く剣が見えた。
男が両手で振り下ろす。
紫の障壁が大きくへこみ、視界いっぱいにひびが走った。その一撃で身体ごと押し下げられ、床が一気に迫ってくる。
頭上へ剣をかざした途端、障壁が砕けた。突き抜けてきた刃を受けても落下は止まらず、滑った切っ先が左腕を掠める。
両足が石床を打った。衝撃で膝が折れ、床へ左手をつく。舞い落ちる紫の欠片が肩へ触れる前に消えていった。
男も少し離れたところへ着地していた。片膝をつきながら、もう剣をこちらへ向けている。
僕は立ち上がった。左の袖から指先へ血が伝ってくる。
「……届くな」
男が言った。
「うん」
血を払うと、男の眉が寄った。
僕の左手を見てから、顔へ視線を戻す。
「なぜ笑っている」
頬に触れようとして、やめた。
「そんな顔をしていた?」
男は返事をしなかった。
男が剣を持ち直す。その柄に、肩から伝った血が落ちた。
僕は崩れた床の向こうへ目を向けた。
開いた扉はそのままだった。その奥の暗がりで、鎧の擦れる音がする。一つではなかった。
「外には、まだ人がいるんだね」
「ここには入れない」
「君が、そう言ったの?」
「ここから先は自分が行くと、俺が決めた」
扉を見ていた僕の目を、男の視線が引き戻した。
「だから、こちらを見ろ」
僕は剣を上げた。
半歩下がると、脚が後ろの柱に当たった。男の剣が光を帯び、床へ落ちる血を照らす。
左手を胸の高さまで持ち上げた時には、男が目の前まで迫っていた。
剣を合わせた瞬間、男が柄で僕の手首を打つ。弾かれた剣が胸の前から外れ、そこへ男が踏み込んできた。
空いた胸元に、薄紫の障壁が生まれかけた。
僕は左手を下ろした。
障壁が解け、突き出された切っ先が、胸に触れる寸前で止まった。
「……なぜ、防がない」
男は僕を見ていた。
その目を見返しながら、剣を握る男の手に指を添える。血に濡れた手が、わずかに強張った。
「躊躇わないで」
その手の向きを少しだけ変え、切っ先を胸の真ん中へ導く。
男の目が見開かれた。
僕が手を離しても、男は動かなかった。視線が、剣と僕の顔を行き来する。
やがて、柄を握る指に力がこもった。
男が踏み込む。
剣が、胸を貫いた。
息が止まり、柱へ背中が押しつけられる。
手から剣が落ちた。
思っていたよりも、大きな音がした。
男は剣を握ったまま、僕を見ていた。
「終わりだ……」
「うん」
息を吐くと、喉へ血が上がってきた。咳を飲み込んだ。
「俺は……これで、よかったのか」
それを決めるのは、僕じゃない。
その肩へ、手を置いた。
「最期に、君の名前を聞いてもいい……?」
声に、もう力が入らなかった。
男が顔を寄せる。しばらく僕を見つめてから、口を開いた。
「……セイル。セイル・グランツだ」
「そう。セイル……」
肩に置いた手へ、少しだけ力を込める。
「……まあ、頑張って」
男の眉が寄った。
「待て。まだ──」
その先は、聞き取れなかった。
肩から手が滑り落ちる。
遠くで、誰かの足音がした。
◇
瞼の上が、温かかった。
顔を背けると、頬に乾いた布が擦れた。
目を開く。
古びた天井があった。
板の一枚が斜めに垂れ、その隙間から日が差している。細く落ちた光が、ちょうど顔の上にかかっていた。
息を吸う。
湿った木と、土の匂いがした。
胸へ左手を置くと、薄い上衣の下で鼓動が返ってきた。
指先に血はついていなかった。
腕を持ち上げる。
細い手首。小さな掌。
頬に触れる。
鼻、口、目元。
どれも、覚えている自分のものとは違う。
髪を掻き上げようとして、指先が耳に触れた。
「……長い」
確かめるようになぞる。
尖っている。
ついでに髪をひと房つまみ、目の前まで持ってきた。白い髪だった。
「今世はエルフ……っぽい……?」
少なくとも、人間ではなさそうだった。
まあ、それはあとで確かめればいい。
「名前はどうしよっかな……」
一つだけは、考えるまでもなく決まっていた。
「エクセリアはつけたい」
僕を慕っていた子が、その名前だったから。
なら、残りは──。
なんとなく自分の手を見る。
細くなった指。その先にある、小さな爪。
「……ネイル」
口に出してみる。
「ネイル・エクセリア」
もう一度。
悪くない。
「じゃあ、それで」
胸へ左手を戻し、身体を起こした。背中の下で藁が鳴る。
そばで、何かが跳ねた。
顔を向けると、獣がいた。
細い脚に、長い首。薄茶色の毛に、背を走る白い斑点。短い角の先が二つに分かれている。
胴よりも長い尾が後ろの床に伸びていた。先についた白い毛の房だけが小さく揺れている。
獣は前脚を突っ張り、僕を見ていた。
立った耳がこちらへ向いている。
「……驚かせたね」
床には毛布が敷かれていた。壁際には水差しと、木の器。脚の折れた椅子が横倒しになり、その向こうの壁は大きく抜けている。
外には木々が続いていた。
低い枝が壁の穴へ入り込み、葉の影を床に揺らしている。窓だったらしい四角い枠には、もう硝子も戸板もなかった。
小さな家だった。
獣が首を伸ばした。
鼻先が僕の袖に触れる。短く匂いを嗅ぐと、張っていた前脚から力が抜けた。
一歩近づき、今度は肩へ鼻を寄せてくる。
首には細い布が結ばれていた。
汚れてはいたが、きつく締まらないよう指が入る隙間がある。結び目のそばだけ、毛が寝ていた。
右手を差し出すと、獣は逃げなかった。
むしろ、その下へ頭を入れてきた。
「ここを?」
角の付け根を撫でる。
獣は目を細め、手へ頭を押しつけた。
爪の間に残っていた土が毛に引っ掛かった。指を開いて払うと、撫でる手が止まったのが不満だったのか、鼻先で肘を押される。
「分かったよ。そんなに押さなくても」
もう一度撫でると、獣は僕の隣へ脚を折った。
脇腹が太腿に触れる。長い尾が、足首へ緩く巻きついた。
屋根の上で何かが小さく跳ねた。続いて鳥が鳴き、壁の外の枝からも返事がした。
胸元に残していた左手を下ろした。
獣の背が、ゆっくりと上下している。
毛布を少し引き寄せると、獣もその分だけ身体を寄せてきた。
膝の上へ、顎が乗った。
しばらく、その重みを受けていた。
獣はときおり耳を動かすだけで、離れようとしない。首を撫でると、喉の奥で小さく鳴った。
「君は、ここに住んでいたんだね」
返事の代わりに鼻先が掌を押した。
壁際の水差しの奥に、乾いた草を詰めた籠がある。折れた椅子の脚には、何度も齧られた跡が残っていた。
黒い杖を探して室内を見回し、途中でやめた。
あのコウモリに預けたままだ。
呼べば何か言い返してくるような気がして、杖の名を口にしかけた。
獣が顔を上げる。
その額を、もう一度撫でた。
「じゃあ、まだ残っているか分からないけど……パレードを探しに行こうか」
獣は耳を傾けた。
僕が腰を上げると、慌てたように立ち上がる。
「一緒に来る?」
獣は鼻先で袖を押し、そのまま戸口までついてきた。
扉は外れて、壁に立て掛けてあった。
敷居の上に落ちた枝を跨ぐ。素足に触れた土は冷たい。二歩ほど進んだところで、木の根を踏んだ。
足を引き、家の中を振り返る。
毛布の端に、一足の靴が置かれていた。
「……先に、あれだね」
獣は戸口で待っていた。
靴を履いて戻ると、獣は鼻先で僕の手を確かめてから隣へ並ぶ。
「お待たせ」
木々の間へ細い踏み跡が続いていた。
両腕を伸ばし、深く息を吸った。
「よし。今回は、思いきり楽しもう!」
垂れた枝を持ち上げると、獣が先にくぐった。白い房が、葉の向こうで揺れる。
僕もその後へ続いた。




