第16章 女王の依頼
扉が開ききるのを待って、グリンは一歩進み出た。
「失礼いたします」
敷居の前で深く一礼し、それから謁見の間へ入っていく。
ネイルも一拍遅れて頭を下げた。正しい角度は分からず、グリンの動きをなぞる。その一歩後ろにつき、ぎこちない足取りで部屋へ入った。
扉から玉座まで深紅の絨毯が真っ直ぐに延び、その両側には淡い銀の筋が走る月紋石の床が広がっていた。
視線を上げすぎないように歩いていても、そこが人を迎えるだけでなく、国そのものを背負う者のための空間だと分かる。
(こういう場所へ入るのも、久しぶりだね)
(主は昔、似たような場所を寝床にしていたではないか。こちらの方が故郷らしいぞ)
(それはそれ。これはこれ)
深紅の絨毯が途切れる場所には、細い銀線が床を横切っていた。
グリンはその手前で足を止め、腰を折って深く頭を垂れた。
ネイルも少し遅れて、その動きをなぞる。
半拍遅れた気はしたが、やり直す方が目立つ。
「女王陛下の命を受け、ネイル・エクセリア様をお連れいたしました」
グリンの声が、謁見の間の奥までよく通った。
「ご苦労さま、グリン。助かったわ」
透き通った声には、僅かな笑みが混じっている。
短い間が空いた。
「……ああ、先に『二人とも、顔を上げなさい』だったわね」
その一言で、張りつめていた室内の空気が和らいだ。
周囲から、慌てた気配も咳払いも起こらない。
女王のこうした振る舞いを、初めて見たわけではないらしい。
グリンが顔を上げる気配に合わせ、ネイルもゆっくりと視線を持ち上げた。
そこで初めて、現女王ルーナ・アグラレスの姿を正面から見る。
髪は白ではなく、光を溶かしたような淡い金色。
紫の瞳は澄み、髪の上には枝葉を細く編んだ小さなティアラが載せられていた。
ネイルとは、輪郭も髪色も瞳の色も違う。それでも目元や鼻筋には、遠い親戚だと言われれば頷いてしまいそうな、似通ったものがあった。
(あちらを主と呼んでみるのも、面白そうだな)
(う、うるさい)
女王の傍らには、待合室の窓から見た男が背筋を伸ばして立ち、その後ろには王家の中枢を担う者たちが並んでいた。ネイルへ向けられる目には、興味と品定めの色が混じっている。
何人かが小さく息を呑み、ネイルとルーナを見比べた。居心地がいいとは言い難かった。
ルーナ自身も、ネイルの顔をしばらく眺めてから口元を緩めた。
「少し、似ているわね」
自分へ向けられた言葉だと気づき、ネイルは慌てて答える。
「……そう、ですね」
ぎこちない返答に、ルーナが小さく笑った。
「ネイル。まずは謝らせて。突然呼び立てて、ごめんなさい」
今度は、ネイルの方が目を瞬いた。
廷臣の前で、女王が一人の冒険者へ真っ先に謝罪した。
「謝っていただくようなことでは」
「謁見とはいっても、ここにいるのは、私が信頼している者だけよ」
ルーナは玉座の肘掛けへ軽く手を置いた。
年上の姉が、困っている妹へ話しかけるような口調だった。
「あなたを見た時、いつもの堅苦しいやり方では合わないと思ったの。違った?」
「今のままで」
「よかった」
ルーナはもう一度笑う。
ネイルの緊張は解けるどころか、別の形へ変わっていった。
「では、先に用件を話すわね。あなたを呼んだ理由は二つよ」
ルーナが指先を動かすと、傍らの二枚の書類が宙を滑り、ネイルの前で止まった。
ネイルは両手で受け取り、上から順に目を通した。
「一つ目。人間領での長年の働きと、我が民を含む多くの者を救った功績を称え、一か月後の周年記念式典で、あなたへ勲章を授与します」
「ちなみに、式典は一般公開よ」
ネイルの背中を、嫌な汗が伝った。
「勲章は、僕には重すぎます。そういう大がかりなものは──」
「受け取りなさい」
間髪を入れずに言われた。
「はい」
ネイルが反射的に返事をすると、廷臣たちの間から、堪えきれなかったような小さな笑いが漏れた。
嘲る響きはなかった。
(怖い姉君だな。キヒヒッ)
(助けて)
(それは我にも無理だ)
「簡単に言えばね、この国には、外であなたに助けられた者が大勢いるの」
ルーナの声から、からかう響きが薄れた。
「それに、あなたを守るためでもあるわ」
「僕を?」
「功績だけが広まれば、利用しようとする者も現れる。面倒な貴族に目をつけられることもあるでしょう。でも、私が授ける勲章があれば、軽々しく手は出せない」
ルーナはネイルの手にある書類へ視線を落とした。
「これは、私があなたの功績を正式に認めているという印よ。持っていて損はないわ。分かる?」
「ありがとうございます」
(主なら、貴族の相手をするくらいなら戦う方がましだろう)
(それは、そう)
「式典だけは、少し大変だけれどね」
「はい」
逃げ道は、初めから用意されていなかったらしい。
「そして、二つ目が本題よ。あなたがこの国へ滞在している間、《王樹魔導衆》の指南役を務めてほしいの」
ルーナは玉座へ深く座り直し、背筋を伸ばした。先ほどまでの柔らかな雰囲気が薄れ、室内の空気も引き締まる。
「あなたが冒険者として積み上げてきた経験を、《王樹魔導衆》へ取り入れたいの」
「アルフヘインは中立国よ。けれど、魔獣も、住民を襲う者も、その中立を尊重してくれるわけではない」
その視線が、傍らに立つ男へ向けられた。
「《王樹魔導衆》は王城と王家の守護を主な役目としてきた。決められた隊形や正面からの戦いには強い。でも、敵がこちらの作法に合わせてくれるとは限らない」
「ハルラス。詳しいところは、あなたから説明して」
「承知しました」
男が一歩前へ出た。
やはり、待合室の窓から見たあの男が、統括長ハルラスだったらしい。
ハルラスはネイルへ正面から目を向けた。
「ここ数年、エルフ領でも、魔族と思われる者に住民が襲われる事案が増えております」
低く、よく通る声だった。
「これまでは《樹都守衛》を中心に対処してまいりました。しかし、それだけでは抑えきれない事態が増え、《王樹魔導衆》を派遣する機会も増えております」
ハルラスの左手が、固く握られた。
「一年前。魔人と思われる存在への対処にあたり、《王樹魔導衆》から派遣した三名と、現地を守っていた守衛三十二名が殉職しました」
誰も声を発しない。
「我々は、その存在を退けることはできました。しかし、討つには至っておりません」
ハルラスは声を揺らさず続けた。
「我々は、正面から敵を迎え撃つ訓練を重ねています。ですが、数も性質も分からない相手を探り、守るべき者を抱えたまま戦場を選び、生きて戻る。その経験が、決定的に不足している」
窓から見た魔導衆は、決して弱くなかった。指示を受ければ、次の一手で仲間との位置まで直せる。
けれど冒険者は、剣を抜く前にも選ぶ。痕跡から相手を測り、戦う場所と逃がす先を決める。勝てる相手でも、守る者を危険へ置くなら戦わないこともある。
求められているのは、その判断だった。
「そのため、ネイル様が冒険者として培われた判断を、我々へ教えていただきたいのです」
ハルラスが深く頭を下げた。
ルーナも、真っ直ぐにネイルを見る。
「頼むわ」
先ほどまでの軽い調子はなかった。
ネイルは手元の書類へ一度目を落とした。
三十五人の死を、彼女は知らない。どこで何を誤ったのかも、この場の説明だけでは分からなかった。
自分が教えれば、次は誰も死なないとも言えない。
それでも、知らない敵の見方と、生きて戻るための判断なら、渡せるものがある。
ネイルは顔を上げる。
「分かりました。僕に教えられることなら」
ネイルは受け取った二枚の書類を重ね直した。




