この人には分からない
歌っていた。
朝の森はやわらかい。
葉の裏には露が揺れ、風の子たちが笑い、遠くで仲間の歌が返ってくる。
私はここにいる。
ここが私の場所だ。
歌えば、森がそう返してくれた。
だから怖くなかった。
――その日までは。
返ってこない気配があった。
重い。
遅い。
森のものではない。
気づいた時には、空が消えていた。
硬いものに閉じ込められる。
狭い。暗い。揺れる。
羽を打っても壁に当たるだけだった。
こわい。
その言葉だけが頭の中で震えていた。
やがて上が開く。
光。
そして、人間。
近い。
大きすぎる顔。
覗き込む目。
落ちてくる声。
何を言っているのか分からない。
でも、やさしい声だった。
だから余計に怖かった。
怒っていない。
飢えてもいない。
なのに、逃がしてくれない。
そこから先のことは、よく覚えていない。
小さな器。
布。
花。
水。
森みたいなもの。
でも違う。
空がない。
風がない。
歌っても返事が返ってこない。
ここは箱だった。
森の真似をしただけの、閉じた箱。
やがて分かった。
この人間は、ただの人間じゃない。
匂いで分かる。
金属。薬。石。焼けたもの。
それから、形を変える時の匂い。
錬金術師だ。
そのことに気づいた瞬間、背の奥まで冷えた。
妖精は祝福を運ぶ。
だから欲しがる者がいる。
閉じ込めて、削って、混ぜて、別のものへ変えようとする者が。
錬金術師は、その最たるものだと聞いていた。
この人間は、やさしかった。
本当に大事にしていた。
けれど、私を見る目だけが違った。
食べる目でもない。
遊ぶ目でもない。
作り変える目だ。
歌った。
帰りたい。
私はここじゃない。
そう歌った。
でも、その人は嬉しそうに目を細めるだけだった。
意味が届いていない。
旋律だけを受け取って、安心したように笑っている。
この人には、歌しか聞こえない。
中の意味は届かない。
歌は、もう祝福にならなかった。
ある夜、空気が変わった。
冷たい。
古い。
深く飢えたもの。
知っている。
見たことはなくても分かる。
魔王だ。
羽の奥まで凍るような気がした。
どうして、と思う。
どうしてこんな場所に。どうしてこの人間のそばに。
次の瞬間、世界が揺れた。
足の下がきしむ。
視界が歪む。
最初は、熱だけだった。
羽の付け根が焼けるみたいに熱い。
骨の奥へ針を流し込まれるみたいに、細い痛みが走る。
次に、引き伸ばされる。
指。
腕。
喉。
背骨。
全部が、自分のものじゃない力で変えられていく。
痛い。
声にならない悲鳴が喉につかえた。
歌おうとした。
でも駄目だった。
音は出るのに、何も返ってこない。
歌が、ただの音になっていく。
怖い。
帰りたい。
わたしは、わたしだ。
でも届かない。
終わった時、その人間は扉の前に立っていた。
嬉しそうに、こちらを見ている。
「リリィ」
違う。
「ほんとうに……できた」
震えた声だった。
泣きそうなくらい、嬉しそうだった。
近づいてくる。
怖くて下がる。
でも、その人は笑った。
「やっと、同じだ」
違う。
違う。
同じじゃない。
でもその人は、子どもみたいに笑っていた。
大丈夫。
怖くないよ。
昔から変わらない、やさしい声でそう言う。
怖い。
本当にそう思っているのが、いちばん怖かった。
「喋れないのかな」
本気で心配する声だった。
歌は歌えるのに。
話せるよね。
無理しなくていいから。
やわらかく言い聞かせるその響きに、喉の奥が震えた。
この人には分からない。
魔王が何かも。
何をしたのかも。
どれだけ取り返しがつかないのかも。
そして。
それを“愛”だと信じていることが、どれだけ残酷なのかも。




