容易いことだ
王宮北棟の研究室は、日が傾く頃になると急に静かになる。
昼間は人の目がある。
王宮付き錬金術師として求められる仕事もあるし、誰かしらが出入りする。
整えられた術式。
完成された報告書。
正しい成果。
そういう“表”の仕事をしている間は、まだ自分もまともな側に立っていられる気がした。
だが、人払いを済ませたあとの研究室は違う。
扉を閉ざし、魔導灯をひとつ落とし、実験槽の青白い光だけが床へ長く伸びると、その場所は急に本来の顔へ戻る。
棚に並ぶ器も。
床に刻まれた円陣も。
壁に貼られた構造図も。
何かを待っているように見えた。
ノアは机に向かい、記録帳を開いていた。
器の安定率。
霊的配列の保持時間。
肉体構造と魂の接続面に生じる誤差。
人型の器は、すでに何度も成功している。
ホムンクルスも安定した。
人のかたちをしたものを作るだけなら、今のノアには難しくない。
難しいのは、そこではない。
ノアは記録帳の余白へ、細い文字で書きつけた。
同一性の維持。
すぐ下に線を引く。
大きさの差異による認識齟齬。
さらに、その下へ。
同じ目線。
そこまで書いて、ペン先が止まった。
こんなものは研究記録に書く言葉ではない。
願望だ。
もっと言えば、子どもじみた祈りに近い。
同じ目線で話したい。
同じ大きさで、同じ距離で、あの歌を聞きたい。
たったそれだけのために、どれだけ遠くまで来てしまったのか。
ノアは目を閉じた。
器は作れる。
人型の安定化もできる。
魂の座を受け止める構造も、理論上は組める。
だが、彼女は一個体しかいない。
失敗はできない。
やり直しもきかない。
もし壊してしまったら、それで終わりだ。
何年も、そこで止まっていた。
理論はある。
手も届く。
けれど最後の一歩だけが踏み出せない。
「……あと少しなのに」
誰に聞かせるでもなく、ノアはつぶやいた。
返事はない。
そのはずだった。
――何が?
ノアの肩が、ぴくりと揺れた。
反射的に振り返る。
扉は閉まっている。
ホムンクルスたちは全員停止状態で、壁際に控えたまま動かない。
実験槽の液体も静かだった。
誰かが入ってきた気配はない。
それでも、確かに聞こえた。
耳で聞いたのとは違う。
頭の内側へ、意味だけが落ちてきたような感覚だった。
「……誰だ」
ノアは立ち上がった。
研究室の中央へ一歩出る。
床の円陣が、靴底の下で冷たかった。
――君は、あと少しだと言った。
今度はもっとはっきりしていた。
低くも高くもない声。
男とも女ともつかない声。
妙に自然で、昔からそこにいたものが、ようやく口をきいたような不気味さがあった。
「姿を見せろ」
――必要かい?
研究室の隅。
実験槽のガラス面に、何かが揺らいだ。
そこにいるはずのない輪郭だった。
黒い靄のようにも。
夜の染みのようにも見える。
認識しようとすると、逆に曖昧になる。
「……何者だ」
影は笑ったような気がした。
――君たちは、いつも難しく考える。
「君たち?」
――錬金術師は。
ノアは眉をひそめた。
「馬鹿にしてるのか」
――まさか。むしろ感心している。
影は実験槽の間を歩くように、少し位置を変えた。
歩いているのではない。
存在の濃さだけが、別の場所へ移ったように見えた。
――器は作れている。
――構造も理解している。
――魂の座も、肉の器も、君はもうほとんど自分のものにした。
ノアの喉が、かすかに動く。
図星だった。
――それでも進めないのは、壊したくないからだ。
――違うかい?
ノアは何も答えなかった。
答えないことそのものが、肯定みたいなものだった。
影は責めもしない。
笑いもしない。
ただ、当たり前のことを確認するみたいに言葉を重ねる。
――大事なんだろう。
――ようやく手に入れた、たったひとつのものなんだから。
「手に入れた、とか、そういう言い方は好きじゃない」
――そうか。
「僕は――」
言いかけて、ノアは口を閉ざした。
何だと言いたかったのか、自分でも分からない。
守っている。
愛している。
壊したくない。
友達になりたい。
どれも嘘ではない。
なのに、どれひとつとして正しくない。
影はそれを見透かしたように、声をやわらげた。
――君は壊したいわけじゃない。
――ただ、同じ場所に立ちたいだけだ。
その一言が、胸の奥へ静かに落ちた。
「……そうだよ」
気づけば、答えていた。
「同じ目線で、ちゃんと話したいだけだ」
「それだけなんだ」
「そんなに、おかしいことか?」
影は揺れている。
けれど返ってきた声は、妙に優しかった。
――少しも。
ノアは黙った。
否定されるとは思っていなかった。
けれど、理解されるとも思っていなかった。
「……だとしても、簡単な話じゃない」
――何が?
「全部だよ」
ノアは記録帳を掴み、開いたページを影へ向けた。
「肉体は作れる。器も作れる。安定もさせられる。でも彼女は妖精だ。人間とは構造が違う。大きさも、位相も、世界とのつながり方も違う。無理に寄せれば歪む。融合なんて論外だ。そんなことは分かってる」
――だから止まっている?
「当たり前だろ」
声が荒くなった。
「失敗できないんだ」
「代わりなんてない」
「ホムンクルスじゃ駄目なんだ。器だけじゃ意味がない」
「彼女じゃなきゃ、駄目なんだよ」
言ってから、ノアは息を呑んだ。
どうしてここまで話しているのか分からない。
相手は得体の知れない影だ。
信じていい理由など、ひとつもない。
それなのに、止められなかった。
誰にも言えなかった言葉が、堰を切ったようにこぼれていた。
影は静かに、その告白を受け取った。
――なら、難しく考えすぎだ。
「何?」
影の輪郭が、青白い光を受けて濃くなる。
――君は“人間にしよう”としている。
――あるいは、“同じ存在にしよう”としている。
――だから遠い。
ノアは息を詰めた。
――人間にすることはできない。
――それは無理だ。
やはり、と思いかけた。
次の言葉を聞くまでは。
――だが、人の大きさにするだけなら容易い。
音が消えた気がした。
「……は?」
問い返した声は、自分でも驚くほど幼かった。
――種は変えない。
――魂も変えない。
――妖精のまま、大きさだけを揃える。
――それなら何も壊さずに済む。
何年も考えていたことだった。
いや、考えようとして、考えきれなかったことだ。
魂。
器。
存在の統一。
再定義。
大きくて重い言葉ばかり抱え込み、最後には自分で手を止めていた。
だが、影はあまりにも簡単に言った。
大きさだけを揃える。
「……できるのか」
――できるよ。
「僕が、どれだけ」
――見ていた。
「何年も」
――ずっとね。
「止まっていたのかも?」
――もちろん。
嘲りはなかった。
だからこそ、怖かった。
「……代償は」
影が揺らぐ。
「あるんだろ。そういうの」
そんなうまい話があるはずない。
何かを変えるには、必ず何かが要る。
錬金術師なら知っている。
理を曲げる時、世界は必ず帳尻を求める。
影は、その質問を待っていたように静まり返った。
――欲しいのは、君の選択だ。
「選択?」
――世界の規則と、彼女。
――どちらを選ぶ?
ノアは動けなかった。
問いは簡単すぎた。
簡単すぎて、残酷だった。
世界の規則。
理。
禁忌。
そんなものは最初から分かっている。
分かっていたからこそ、止まっていた。
でも彼女は、ここにいる。
小さくて。
震えていて。
歌っていて。
ずっと手の届かないところにいる。
同じ大きさにできるのなら。
同じ目線に立てるのなら。
ノアは目を閉じた。
脳裏に浮かんだのは、箱庭の中で枝に寄り添って歌う小さな影だった。
花の蜜を舐める仕草。
怯えた目。
震える羽。
たまに見せる、儚い静けさ。
守りたい、と思った。
同じくらい、触れたいとも思った。
友達になりたいという子どもの願いは、とうにそこでは済まなくなっている。
それでも、始まりだけはまだ綺麗なままだった。
「……彼女を」
声が掠れる。
「壊さないなら」
――壊さない。
ノアは記録帳から手を離した。
指先が白くなっている。
「同じ大きさに、できるなら」
その先は、もう言わなくても決まっていた。
「……それでいい」
影は祝福しなかった。
ただ、最初からそうなると知っていたように濃くなる。
――契約成立だ。
その瞬間、研究室の魔導灯が一斉に揺れた。
実験槽のガラス面に無数の光が走る。
床の円陣が明滅し、壁際のホムンクルスたちのまぶたが、一瞬だけ震えたように見えた。
――次に夜が満ちる時、願いは形になる。
光が消える。
気づけば、研究室にはいつもの静けさが戻っていた。
影はどこにもない。
魔導灯も、実験槽も、何事もなかった顔をしている。
ノアはその場に立ち尽くした。
今のは何だったのか。
幻か。
妄想か。
疲労か。
そう思おうとする自分もいた。
だが、床の円陣の一角に、見覚えのない細い線が増えていた。
その瞬間、言い訳は消えた。
ノアは膝をつく。
指先で線をなぞる。
冷たい。
確かに刻まれている。
「……ほんとうに」
声が揺れた。
恐怖なのか。
期待なのか。
自分でも分からない。
ただ胸の奥に、ひとつだけ確かな熱が灯っていた。
そして次の夜。
箱庭の灯りは、いつもより落としてあった。
細い水路の音だけが、部屋の奥で静かに鳴っている。
ノアは扉の前で息を止めた。
それから、ゆっくりと開ける。
最初は、何も変わっていないように見えた。
低い枝。
小さな卓。
花を集めた器。
彼女のために整えた小さな森。
いつも通りの箱庭。
だが、次の瞬間。
空気が揺らいだ。
魔導灯の光がわずかに歪む。
水面が細かく揺れ、葉の影が床の上でかすかに伸びた。
枝の陰から、白い足が見える。
人の足だ、と一瞬思った。
けれど違う。
もっと細く。
もっと儚く。
それでいて、もう掌の中に収まる大きさではない。
続いて、淡い色の髪がこぼれた。
花びらみたいな髪が、肩を過ぎ、胸元へ流れている。
最後に、その顔が上がった。
ノアは息を呑む。
見覚えのある顔だった。
何年も見てきた。
怯えた目も、薄い唇も、細い顎の線も、知っている。
知っている。
なのに、まるで初めて見るようだった。
大きい。
ただ、それだけのはずだった。
妖精のまま、大きさだけを揃える。
影が言った通りになっただけだ。
それなのに、世界そのものが変わって見えた。
もう掌に乗せる存在ではない。
見上げれば目が合う。
手を伸ばせば、触れられる。
同じ部屋の、同じ空気の中にいる。
背には半透明の羽が残っていた。
衣も、人の服とは違う質感のまま、彼女の身体を包んでいる。
妖精であることは、何ひとつ変わっていない。
ただ大きくなっただけ。
ただ、それだけだ。
「……あ」
間の抜けた声が漏れた。
何年も止まっていたものが、こんなにもあっさり形になってしまった。
「リリィ」
呼ぶ声が震える。
彼女は答えない。
怯えたように肩を引いた。
その仕草すら、今のノアには信じられないほど美しく見えた。
「ほんとうに……」
笑わずにはいられなかった。
「できた」
胸の奥から、安堵と達成感と歓喜が一度にこみ上げる。
同じ大きさ。
同じ目線。
同じ距離。
「やっと」
ノアは一歩近づいた。
彼女が小さく身を引く。
その動きにすら気づいていながら、今は止まれなかった。
「やっと、同じだ」
泣きそうな顔で、ノアは笑った。
届く。
もっと近くへ行ける。
見下ろすのではなく。
閉じ込めるのでもなく。
今度こそ、ちゃんと向き合える。
ノアは手を伸ばした。
「大丈夫」
「怖くないよ」
その声は、昔から変わらない。
優しくて、穏やかで、彼女を傷つけまいとする声だった。
ただ今夜だけは、熱を帯びていた。
リリィはさらに奥へ下がる。
それでも、ノアの表情は崩れない。
怯えているのは分かる。
急だったからだ。
慣れていないだけだ。
同じ大きさになれたのだから、これから変わっていく。
きっと。
ノアは箱庭を見回した。
枝の高さも、椅子の大きさも、寝台も、すべてが急に小さく見える。
「ああ、作り直さないと」
「もっとちゃんとしなきゃ」
「今度は、君に合うように」
見たかったものが、ここにある。
何年も焦がれていた光景が、ようやく形になった。
だからノアは、心からそう言った。
「これでもっと、仲良くなれるね」




