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この人には分からない

 歌っていた。


 森の光がやわらかく揺れて、葉の裏にたまった朝露がこぼれそうになる頃だった。

 細い枝の上で、仲間たちと声を重ねていた。


 歌うと、木々はよく眠る。

 根は深く落ち着いて、土の下の水は静かになり、近くを漂う精霊たちも、機嫌よく光を返す。


 いつもの朝だった。


 風の子が笑って、花の奥で眠っていた小さなものたちが目を覚まして、遠くで別の歌がひとつ返ってくる。

 森はいつもそうやってつながっていた。


 私はここにいる、と歌う。

 ここが私の場所だ、と歌う。

 みんながそれを知っていて、返してくれる。


 だから怖くなかった。


 けれど、その日は違った。


 ひとつ、返ってこない声があった。


 仲間ではない。

 精霊でもない。

 もっと重くて、もっと遅いもの。


 森のものじゃない。


 気づいた時には、もう遅かった。


 空が消えた。


 光が消えて、風が消えて、枝の感触も足の下からなくなった。

 何か硬いものに閉じ込められている。狭い。暗い。息が詰まる。


 羽を打った。

 壁に当たる。

 歌おうとして、声がうまく出ない。


 こわい。


 その一語だけが、頭の中で何度も震えた。


 人間は怖いものもいる。

 森の外のものは、優しくないことがある。

 見つかったら逃げなさい。

 そう教えられていた。


 でも、こんなふうだとは聞いていなかった。


 狭い。

 暗い。

 揺れる。

 持ち上げられている。


 外から大きな音がする。音というより振動に近い。低くて、意味の分からない声。

 笑っているようにも、驚いているようにも聞こえた。


 やがて暗闇の上が開く。


 光が差し込む。

 眩しくて、目を細めた。


 そこにいたのは、人間だった。


 大きい。


 知っている。

 人間は大きい。

 けれど、こんなに大きかっただろうかと思うほど、近い。顔が近い。瞳が覗き込んでいる。息がかかる。手が大きすぎる。


 怖くて、体が動かなかった。


 その人間は何かを言っていた。

 意味は分からない。けれど声は柔らかかった。柔らかいことが余計に怖かった。


 怒っていない。

 飢えてもいない。

 なのに、逃がしてくれない。


 それが分からないもののいちばん怖いところだった。


 そこから先の時間は、うまく思い出せない。


 小さな器に移されて、布を入れられて、甘い匂いのするものを差し出されて、光の具合を変えられて、また覗き込まれて。

 その繰り返し。


 人間は何かをし続けていた。

 小さな部屋を作り、葉を集め、水を置き、花を並べる。まるで森を真似ているみたいだった。


 でも違う。


 森じゃない。


 空がない。

 風の通り道がない。

 歌っても返事が返ってこない。


 ここは箱だ。


 箱の中へ森の形を描いただけの、違う場所だ。


 あの人間はいつも何かを言っていた。優しい声だった。低くて、やわらかくて、壊れ物に触るみたいな手つきだった。



 やがて分かった。


 この人間は、ただの人間じゃない。


 匂いで分かる。

 金属。薬。石。焼けたもの。

 それから、形を変える時の匂い。


 錬金術師だ。


 そのことに気づいた瞬間、背の奥まで冷えた。



 妖精は歌う。

 妖精はつなぐ。

 妖精は祝福を運ぶ。


 だから欲しがるものがいる。

 閉じ込めるものがいる。

 削って、混ぜて、別の形に変えようとするものがいる。


 錬金術師は、その最たるものだと聞いていた。


 ただの人間ならまだ逃げられることもある。

 怖がっているだけで、見逃してくれることもある。

 でも錬金術師は違う。


 見ているものが、最初から違う。


 綺麗だとか、小さいだとか、そういうことじゃない。

 もっと奥。

 羽。骨。喉。光。軽さ。

 そういうものの“使い道”を見る眼だ。


 この人間は、笑っていた。

 優しかった。

 本気で大事にしていた。


 でも、私を見ている目だけが違った。


 それは森で見たことのない目だった。

 食べる目でも、遊ぶ目でも、怒る目でもない。


 作り変える目だ。


 籠の中で震えながら、その視線だけは何度も感じた。


 歌なら届くことがある。

 歌えば、少しだけ森を思い出せる。少しだけ自分が薄くならずに済む。


 だから歌った。


 ここは違う。

 私はここじゃない。

 帰りたい。


 そう歌っていた。


 でもその人間は、嬉しそうに目を細めるだけだった。


 意味が届いていない。


 旋律だけを受け取って、安心したように笑っている。


 この人には、歌しか聞こえない。

 歌の中の意味は届かない。


 歌は、もう祝福にならなかった。


 森にいた頃は違った。

 歌えば木々が揺れ、仲間が返してくれて、精霊たちが集まった。

 ここでは何も返らない。柔らかな灯りも、並べられた花も、流れる水も、ただ森のまねごとをしているだけ。


 悲しかった。

 精霊が歌わない。

 誰も返事をしない。

 歌うほど、自分だけが取り残されていく。


 それでも歌うしかなかった。

 歌わなければ、自分が自分ではなくなっていく気がした。


 ある夜、空気が変わった。


 箱庭の中にいながら、それが分かった。

 冷たい。古い。暗い。

 森の闇とは違う。土の下の静けさとも違う。もっと深くて、もっと飢えたもの。


 知っている、と思った。


 見たことはない。

 それでも分かる。

 私たちは、そういうものを知っている。


 魔王だ。


 羽の奥まで凍るような気がした。

 どうして、と思う。

 どうしてこんな場所に。どうしてこの人間のそばに。


 終わった、と思った。


 逃げようとしても遅い。

 箱庭は閉じている。

 歌っても、仲間も精霊も来ない。

 ここはそういう場所じゃない。


 そして、世界が揺れた。


 足の下がきしむ。

 視界が歪む。


 最初は、熱だけだった。

 羽の付け根が焼けるみたいに熱い。骨の奥へ針を流し込まれるみたいに、細い痛みが走る。


 次に、引き伸ばされる。


 指先。

 腕。

 肋。

 喉。

 背骨。

 全部が、自分のものではない力で引かれていく。


 痛い。


 声にならない悲鳴が喉につかえた。


 歌おうとした。

 歌えば、自分をつなぎ止められると思った。

 でも駄目だった。


 音は出る。

 なのに乗らない。


 ここでは何も返らない。


 歌が、ただの音になる。


 祝福が抜け落ちていく。

 自分の輪郭が、少しずつほどけていく。


 作り変えられている。


 分かった瞬間、怖くてたまらなくなった。


 魔王だ。

 自分は無理やり形を変えられている。


 やめて。

 いやだ、帰りたい、わたしはわたしだ。


 でも届かない。


 森の小さな枝に乗るための身体が、得体の知らない重さを持っていく。

 羽は残っているのに、空気の流れが違う。

 指先も、喉も、視界も、全部が急に。


 息をするだけで怖かった。


 それが終わった時、あの人間は扉の前に立っていた。


 見ている。


 ひどくきれいな顔で、信じられないものを見るみたいに、でも嬉しそうに。

 その目を見た瞬間、また分かった。


 この人は、これを奇跡だと思っている。


「リリィ」


 その名前で呼ばれる。

 違う、と胸の奥で震える。


「ほんとうに……できた」


 声が震えていた。

 泣きそうなほど嬉しいのだと分かる。


 近づいてくる。


 怖くて、一歩下がった。

 今までは箱の外から覗き込んでいた大きな人間が、今は同じ高さで近づいてくる。

 目が合う。息が届く。手が届く。


 触れられる。


 そのことが、たまらなく怖かった。


「やっと、同じだ」


 違う。

 違う。

 同じじゃない。


 でもその人は、まるで願いが叶った子どもみたいに笑っていた。


 大丈夫、とその人は言った。

 怖くないよ、と、昔からずっと変わらないやさしい声で。


 怖い。


 この人は本当にそう思っている。

 それが何より怖かった。


 手が伸びる。

 また一歩、下がる。


 その人は少し困ったような顔をしたが、それでもすぐに、目を細めた。


 喋れないのかな、と独り言のようにこぼす。

 声帯が違うのかな、と続けた。


 本気で心配している声だった。


 歌は歌えるのに。

 話せるよね。

 大丈夫、無理しなくていいから。


 やわらかく言い聞かせるその響きに、喉の奥が震えた。


 この人には分からない。


 魔王が何かも。

 何をしたのかも。

 どれだけ取り返しがつかないかのも。


 そして。



 それを“愛”だと信じていることが、どれだけ残酷なのかも。


 

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