つかまえた
きれいな声だ、と思った。
最初は鳥かと思った。
風が梢を揺らして、葉擦れの音がそう聞こえただけかもしれない。
けれど違った。
歌だった。
少年だったノアは、森の奥で立ち止まった。
昼下がりの森は明るい。
木漏れ日が地面の上で揺れ、若葉の匂いがして、遠くで小川の音がしていた。
その中に混ざって、細く澄んだ声が流れている。
人の声に似ていた。
けれど、人が歌うのとは少し違う。
もっと軽くて、もっと透きとおっていて、触れたら消えてしまいそうな響きだった。
「……どこだろ」
ノアは歌のするほうへ歩いた。
低い枝をくぐり、花の咲いている場所を抜ける。
すると、陽だまりみたいな場所に、それはいた。
小さい。
最初に思ったのは、それだった。
花の上に座っているのかと思うほど小さな体。
透ける羽。
淡い色の髪。
白い花びらみたいな服。
その全部が、見たこともないくらい綺麗だった。
「……かわいい」
口に出してから、自分で少し驚いた。
でも、それ以外に言いようがなかった。
妖精は歌うのをやめ、こちらを見た。
大きな目だった。
警戒しているようにも、怯えているようにも見えた。
けれどその時のノアには、ただ綺麗だということしか分からなかった。
「えっと……こんにちは」
妖精は答えない。
ただ、じっと見てくる。
「歌、すごくきれいだった」
返事はない。
でも、逃げもしない。
ノアは嬉しくなった。
もっと近くで見たい。
もっとちゃんと話したい。
何を歌っているのか知りたい。
友達になれたらいいのに。
その時は、ほんとうにそう思った。
「ぼく、ノア」
胸に手を当てて名乗る。
妖精は首をかしげた。
「ノア。きみは?」
分かるはずがないのに、訊いてしまう。
妖精は少しだけ羽を揺らし、それから、また歌った。
意味は分からなかった。
でもノアは、それを返事の代わりだと思った。
それから何度か、ノアは森でその妖精を見かけた。
いつも少し離れた場所からだった。
近づきすぎると、消えてしまいそうで怖かったのだ。
だから見るだけだった。
歌を聞いて。
綺麗だと思って。
また会えたことを喜んだ。
話したい。
隣に座りたい。
同じ目線で笑えたらいいのに。
そんな願いだけを抱えたまま、時間は過ぎた。
ノアは成長した。
森に来る回数は減り、宮廷に上がり、勉強に追われ、錬金術を学んだ。
気づけば、子どもの頃の陽だまりは遠くなっていた。
それでも、ときどき思い出した。
羽のある小さなもの。
花の上で歌っていた、きれいな声。
まるで夢みたいだった、と思うこともあった。
だから、再びその歌を聞いた時、ノアは足を止めた。
夕方の森だった。
仕事帰りに、ほんの気まぐれで足を向けただけ。
昔の道を、何となく歩いていただけだった。
なのに、聞こえた。
あの声だ。
すぐに分かった。
胸が、どくんと鳴る。
信じられなくて。
けれど間違えようもなくて。
ノアは息を殺し、歌のするほうへ進んだ。
いた。
いたのだ。
昔とほとんど変わらない姿で、妖精は枝先に腰掛けていた。
夕陽の光を背負って、羽が透けて見える。
歌いながら、少しだけ足を揺らしている。
「……ほんとに」
ノアは呆然とつぶやいた。
まだいた。
消えていなかった。
夢じゃなかった。
嬉しかった。
どうしようもなく。
同時に、焦った。
もう二度と会えないかもしれない。
この次があるなんて、誰が保証してくれる?
昔の自分なら、ただ見ているだけで満足しただろう。
でも、今のノアはそれでは足りなかった。
話したい。
近づきたい。
ちゃんと見たい。
ずっとそばにいたい。
そう思った瞬間には、もう体が動いていた。
枝に手を伸ばす。
妖精がはっと顔を上げる。
羽が震える。
逃げようとする。
けれど、小さすぎた。
ノアの手の中に、その体はすっぽり収まってしまった。
「……え」
掌の上で、小さな体がびくっと跳ねる。
軽い。
熱いくらいに生きているのに、驚くほど軽い。
ノアは目を見開いた。
「つかまえた」
ほんとうに?
自分が?
あんなに遠くて、綺麗で、手の届かないものだったのに?
「やった……」
こぼれた声は、自分でも少し子どもっぽいと思った。
でも、抑えられなかった。
妖精は掌の中で必死に身をよじった。
羽が震えている。
怖がっているのだと、その時のノアにも分かった。
それでも、手は放さなかった。
「大丈夫」
反射みたいにそう言っていた。
「怖くないよ」
怖がらせているのは自分なのに。
「ごめん、びっくりしたよね。でも……でも、逃がしたらもう会えないかもしれないし」
妖精は答えない。
細い腕で、ノアの指を押し返そうとしている。
けれどそれは、押しているというより、ただ触れているだけみたいな力だった。
その弱さに、ノアの中の何かが決定的に傾いた。
守らなければ、と思った。
このまま森に置いておくのは危ない。
自分が連れて帰ったほうがいい。
ちゃんとした場所を作ってあげればいい。
そう考えた瞬間、それはもう正しいことになっていた。
「家に行こう」
ノアは掌を少し包むようにして、声をやわらげた。
「大丈夫。ちゃんときれいなおうちにするから」
妖精は震えていた。
「怖くないようにするし、ごはんも調べるし、花も置くよ。森みたいにする」
言いながら、ノアの頭の中では、もういくつもの考えが走っていた。
小さな器がいる。
柔らかい布もいる。
風は弱く。
水は浅く。
花は、香りの強すぎないものがいい。
籠は――いや、最初はそれしかなくても、すぐにもっといいものを作れる。
錬金術ならできる。
自分なら、きっとできる。
「話もしたいし」
つぶやいた時、妖精がいっそう強く身をよじった。
ノアは慌てて手の力を弱める。
「あ、ごめん。痛くしない」
ほんとうにそう思っていた。
傷つけたくなどなかった。
だからこそ、そっと胸元へ抱え込むようにして歩き出す。
外気に触れすぎないように。
落としてしまわないように。
逃げないように。
腕の中で、小さな震えが続いていた。
「すぐ着くから」
「大丈夫」
「ほんとに、すぐきれいにするから」
誰に向かって言っているのか、自分でも分からなかった。
それでもノアは言い続けた。
森を出る頃には、もう日が落ちかけていた。
屋敷へ戻ったノアは、そのまま自室の机の引き出しをひっくり返した。
細工用の小箱。
使っていないガラス器。
綿。
薄い布。
小さな銀皿。
花瓶。
使えそうなものを、次々に集める。
妖精は、机の上に置いた仮の籠の隅で、羽を震わせていた。
ノアはその姿を見るたび、胸がきゅっとした。
かわいい、と思った。
それと同じくらい、守らなきゃ、と思った。
「ごめんね、今はこんなのしかないけど」
籠の底に布を敷きながら、ノアは真剣に言う。
「すぐもっといいの作る」
「花も入れるし、水もちゃんとする」
「きみの好きな、歌える場所も作るから」
妖精は答えない。
それでもノアは少し笑った。
嬉しかったのだ。
ずっと見たかったものが、今、ここにいる。
「ほんとに、会えた」
呟いてから、ノアは籠の中を覗き込んだ。
怯えた目が、自分を見返していた。
それでもノアの胸の奥は、熱くなるばかりだった。
「大丈夫」
ノアはもう一度言った。
「ちゃんとするから」
その言葉は祈りみたいに、静かな部屋へ落ちた。




