箱庭の森
「ただいま、リリィ」
ノアの声は、宮廷にいる時より少しだけやわらかかった。
扉の向こうに広がっていたのは、小さな森だった。
――もちろん、本物ではない。
白い壁と天井に囲まれた一室に、土を敷き、苔を育て、水を通し、木々と花を植えた。
精巧すぎる、模造の自然。
天井近くの魔導灯は昼の光に近く調整され、やわらかな金色が葉先を撫で、水面にきらめきを落としていた。
部屋の中央には、小さな卓がある。
指先ほどの器が並び、蜜や水、花びらを刻んだものが整然と置かれている。
どれも人間のためのものではない。
ノアは外套の裾を払って、その前に膝をついた。
「ごめんね。今日は少し遅くなった」
返事はない。
水音のそば、小さな枝の陰で、何かがわずかに揺れた。
ノアはそっと視線を落とす。
そこにいたのは、小さな妖精だった。
花弁のように淡い髪。
透けるほど薄い羽。
両手で囲えば消えてしまいそうなほど、か細い身体。
妖精は動かない。
ただ、怯えた小動物のように、目だけがノアを見ている。
その視線に、ノアは気づかないふりをした。
あるいは、本当に気づいていないのかもしれなかった。
「今日はね、前に少しだけ口をつけてくれた蜜を持ってきたんだ」
小さな皿の中で、琥珀色の蜜が揺れる。
「この前のより香りを弱くしてみた。こっちのほうが飲みやすいと思う」
研究の報告のような口調。
けれど手つきだけは、やさしかった。
妖精は羽をわずかに震わせる。
ノアは困ったように微笑んだ。
「今日は気分じゃない?」
皿を戻し、部屋を見回す。
葉のつや、水の流れ、光の強さ。
ひとつひとつを確かめる視線は、あまりにも丁寧だった。
「寒くはないよね」
「風も強くしてないし」
「……いや、少し湿度が高いかな」
誰に聞かせるでもなくつぶやき、魔導具のつまみをわずかに回す。
淡い霧が立ちのぼる。
「これでいい」
満足げに頷き、また振り返る。
「ね、リリィ」
その名を呼ぶときだけ、声がひどくやわらぐ。
妖精は答えない。
ただ、羽が震える。
ノアはそれを見て、安心したように息をついた。
「うん。元気そうでよかった」
――その解釈が、どれほどずれているのか。
この部屋では、誰も指摘しない。
やがて扉の外から足音がした。
「失礼いたします」
入ってきた女は、整いすぎた顔をしていた。
感情の置き場が曖昧な、滑らかな声。
「ノア様、夕食のご用意が整っております」
「ありがとう、エマ。先に置いておいて」
女は妖精を一瞥もしないまま、静かに去る。
ノアは小さく肩を落とした。
「ほんとは、もう少し一緒にいたいんだけど」
寂しそうに笑う。
「でも、食べないと心配する人がいるからね」
妖精は沈黙したままだ。
ノアは自分の食事には手をつけず、器の配置を整え直す。
ほんの数ミリ単位で。
「今日は歌が止まってたから、少し焦った」
「何かあったのかと思ったんだ」
「怖い夢でも見た?」
返るのは、水の音だけ。
「大丈夫」
「ここは安全だから」
部屋を見渡す。
よくできた森だった。
花も、水も、光もある。
――だからこそ、逃げ場はない。
それは、檻だった。
ノアは懐から小さな包みを取り出す。
「綺麗だったから、きみに似合うと思って」
薄青い花弁を水に浮かべる。
妖精の視線が、ほんのわずかに動く。
それだけで、ノアは幸福そうに微笑んだ。
「よかった」
すべてが噛み合っていないのに、その笑みだけが本物だった。
やがて、妖精が息を吸う。
歌がこぼれた。
細く、透き通った、どこにも届かない歌。
ノアは目を閉じる。
「……よかった」
救われたように呟く。
「今日はもう、歌ってくれないかと思った」
歌は続く。
本来なら森を呼ぶはずの歌。
けれどここでは、何も起きない。
ただ一人、ノアだけが満たされる。
「きれいだ」
やさしい声で言う。
「ほんとうに、綺麗だね」
それが愛かどうか、妖精には分からない。
ただ歌う。
自分を忘れないために。
やがて歌が終わる。
「ありがとう、リリィ」
妖精の肩がわずかに強ばる。
ノアは気づかない。
「おやすみ」
光が落ちる。
夜が満ちる。
扉が閉まる。
静寂。
水音だけが残る。
やがて妖精は、青い花弁に手を伸ばした。
震える指先。
それから、扉を見る。
その目は怯えていた。
――けれど、どこか遠くを見ていた。
帰る場所を、思い出すように。




