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ただいま、リリィ

「また帰ったぞ、ノア卿」


 控えの間で誰かが言った。


 その声に、数人の士官がそろって扉のほうを見る。


「はや。まだ杯も出てねえぞ」

「今日も付き合いなしか。ほんと徹底してるな、あの人」

「天才さまは俺らみたいに、仕事終わりの愚痴で酒飲んだりしないんだろ」

「そのくせ成果は一番だから腹立つんだよな」

「わかる。しかも老けねえし」

「それな。肌つや良すぎだろ、あの人。錬金術で何やってんだか」


 小さな笑いが起きた。


 悪意があるわけではない。


 ただ、ノアという男は、あまりに綺麗で、あまりに隙がなく、しかも手の届かない結果を当たり前のように出す。


 だから周囲の人間は、こうして軽口でも叩かなければ落ち着かないのだ。


 王宮付き錬金術師、ノア。


 宮廷内でその名を知らない者はいない。


 薬品調整、結界補修、金属精製、魔導具の保守。

 どれを任せても一流で、しかも仕事が早い。


 報告書の文字まで整っていて、几帳面という言葉では足りないほど無駄がなかった。


 少し前まで、ノアは北棟の補助結界を一人で組み直していた。


 中庭に面した回廊で、淡い金の光が幾重にも重なり、ひび割れていた術式が静かに塞がっていく。


 その光景は見事だった。


 けれど同時に、完成されすぎていて、少し薄気味悪くもあった。


「あれ、ほんと何やってるかわかんねえんだよな」

「術式が綺麗すぎるんだよ。余白がない」

「見てて息苦しいやつな」

「わかる。整いすぎて、なんか怖い」


 ひそひそと言葉が続く。


「でもまあ、本人は穏やかだろ。礼儀正しいし」

「そこが余計に怖いんだよな。あんな完璧なやついる?」

「家で何してるんだろうな、あの人」

「研究だろ」

「いや、研究者って言っても限度あるだろ。毎回あんな真っ直ぐ帰るか?」

「家に誰も入れたことないって話、ほんとなんですかね」

「らしいぞ」

「え、まじで?」

「まじ」


 また笑いが起こる。


 その時、控えの間の奥で書類をまとめていた年嵩の文官が、呆れたように肩をすくめた。


「お前たちも好きだな。そんなに気になるなら本人に聞けばいいだろう」


「聞けるわけないじゃないですか」

「なんて聞くんだよ。“ノア卿、なんでそんなに綺麗なんですか”って?」

「それはそれで気になるだろ」

「あと“なんでそんなにすぐ帰るんですか”も」

「“家に何か隠してるんですか”も追加で」

「やめとけ。明日から薬の配給が減るぞ」


 どっと笑いが広がった。


 けれど、その笑いの中で、扉の向こうを見ていた若い士官がぽつりと言った。


「でもさ」


 声の調子が、少しだけ落ちる。


「たまに思うんだよな。あの人、ちゃんと生きてんのかなって」


「は?」


「いや、疲れてるとかじゃなくて。逆。ずっと同じなんだよ。顔色も、声も、歩き方も」


「急に怖いこと言うなよ」


 若い士官は首をひねった。


「変わらないって、普通は良いことなんだろうけどさ。あの人見てると、たまに人形みたいだなって思う時があって」


 誰もすぐには返事をしなかった。


 軽口の中に、ほんの少しだけ冷たいものが落ちた気がしたからだ。


 だが、その空気を切り替えるように、別の士官がわざと明るい声を出した。


「はいはい、やめやめ。不気味な話は酒のあとにしろ」

「そもそも酒がまだ来てねえんだよ」

「じゃあ今日もノア卿の愚痴だけで終わりか」

「愚痴じゃねえよ、評価だよ」

「それを愚痴って言うんだよ」


 笑いが戻る。


 少しだけ、ぎこちない笑いだった。



 その頃にはもう、ノアの姿は宮廷のどこにもなかった。


 彼は誰より早く仕事を終え、誰より綺麗に礼をし、そのまま夜の宮廷から消えていく。


 引き留めにくいのは、断り方まで丁寧だからだ。


 忙しいのだろう。

 皆はそう思っている。


 実際、その通りでもあるのだろう。


 ただ、その帰り方だけは、いつも少しだけ急いでいるように見えた。



 夜気は冷えていた。


 石畳を打つ靴音は規則正しく、揺れがない。

 外套の裾だけが、静かに翻る。


 ノアは馬車を使わない。


 宮廷から屋敷まで歩けない距離ではない。

 本人はそう言っていた。


 けれど本当は、一刻でも早く帰りたいだけなのかもしれなかった。


 街路を抜け、門をくぐり、自邸の庭へ入る。


 そこで初めて、ノアの足がほんのわずかに止まった。


 静かだった。


 普段なら、玄関を開ける前から聞こえてくるものがある。


 夜の奥に溶けるような、かすかな歌声。


 人の声に似ていて、けれど少し違う。

 細く澄んだ響き。


 それが今夜は、ない。


 ノアはしばらく扉を見つめていた。


 それから、何事もなかったように鍵を開ける。



 屋敷の中は、整いすぎるほど整っていた。


 廊下は磨かれ、灯りはやわらかい。

 空気には、うっすら花の香りが混じっている。


 生活の気配は薄い。

 けれど、冷たさはない。


 誰かを迎えるための家というより、何かを壊さないために保たれている静けさだった。


 ノアは外套を脱がず、そのまま奥へ向かう。


 長い廊下の先に、ひとつだけ重い扉があった。


 鍵はかかっていない。


 だがその扉は、屋敷のどこよりも閉ざされた気配をまとっていた。


 そこで、ノアはもう一度足を止める。


 歌は、聞こえない。


 彼は扉に指先だけを触れさせた。


 壊れものに触る時みたいに、ひどく慎重な手つきだった。


「……大丈夫」


 それが扉の向こうの誰かに向けた言葉なのか。

 それとも、自分に言い聞かせたものなのか。


 短く息をついてから、ノアはいつものように微笑んだ。


 宮廷で見せるのと同じ。

 穏やかで、整った、非の打ちどころのない笑み。


 そして、扉を開ける。


 やわらかな灯りがこぼれた。


 緑の影が壁に揺れる。

 花の匂いが、少し濃くなる。


 部屋の奥は見えない。


 ただ、卓上に置かれた小さな器だけが、淡く光っていた。


 ノアはそこで、ようやく少しだけ声をやわらげた。


「ただいま、リリィ」

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