第十八話 清秋の雨 ー境界の先へー
一回戦が終わった。
予想外の結果もあったが、春日以外は春のランキング上位者ばかりが順当に残っている。
そして、今日から二回戦。
武道館の空気は、昨日とは明らかに違っていた。
名前が呼ばれる。
雪と澪。
雪は、無敗の頂。
澪は、練達の美。
——「観ている側」の人間。
そう言われてきた澪が、いま試合場の中央に立っている。
その姿は、春の演舞のときとは違っていた。
脇差を差した二本差し。
正統な居合の出で立ち。
向かい合う二人の間に、言葉はない。
「……」
雪は、いつもと同じだった。
無理に構えない。気負わない。
だが——
足の置き方。
重心の移り。
呼吸の深さ。
すでに試合前から、澪に「読まれている」感覚がある。
「始め」
声が落ちた瞬間。
動いたのは——雪だった。
踏み込みは鋭い。
無駄がない。
一直線の打ち込み。
同時に、澪も居を抜く。
打突は、鎬で流された。
澪は、半歩だけ前に出ている。
ただそれだけ。
だが、その「半歩」が決定的に遠い。
雪は止まらない。
返す刀で連続。
二手、三手と繋ぐ。
速さは十分。精度も高い。
長刀は扇のように軌跡を描き、二人の間合いを埋め尽くす。
——だが、当たらない。
すべてが、わずかに外され、流される。
単なる受け流しではない。
扇のある場所に、澪はいない。
澪は常に、半歩、扇の外にいる。
「……っ」
澪が前に出た。
一歩。
速くはない。
だが、正確だった。
雪の攻めが、伸び切るその刹那。
中心線に、澪の居合刀がすっと入る。
扇は消え、雪はとっさに飛び退く。
「……」
場内が静まり返る。
雪は動かない。
構えも崩さず、ただ立っている。
やがて、ゆっくりと息を吐いた。
澪は、わずかに切っ先を下げる。
雪は、ほんの少しだけ笑った。
澪の身長は一四〇センチほど。居合刀。
対する雪は一六五センチを超える。長刀。
踏み込みも含めた物理的な間合いは、埋めがたい。
——それでも。
雪は、踏み込めない。
両者とも、動かない。
——静止。
だが、それは止まっているわけではない。
視線。呼吸。重心。
すべてが揺れている。
その中で。
雪が、ほんのわずかに重心を落とした。
澪の目が、わずかに細まる。
その瞬間。
雪は、消えた。
いや——
踏み込みが、見えなかった。
技の起こりが、読みきれない。
鈍い音。
完全な直撃は避けたが、鎬が押し込まれる。
しのぎきれない。
距離が崩れる。
雪は澪を逃さない。
体勢を崩さず、そのまま押し切る。
鎬を返し、二撃目へ。
鋭く、短く。
乾いた音が重なる。
澪は受けきれず、鍔元で止めた。
(力で、押し負ける……)
鍔元を回し、鍔で受け流す。
そのまま横へ流れるように位置を変え、間合いを取り直す。
再び、距離を取って対峙。
雪は構えを戻す。
——大きく距離が開く。
澪は納刀した。
抜き打ちの間合い。
空気が、さらに一段、張り詰める。
澪は、納刀したまま動かない。
鯉口は、切られている。
雪もまた、動かない。
長刀の切っ先は、わずかに下がっている。
観客席のざわめきが薄れていく。
「……」
澪の呼吸が、落ちる。
深く。
細く。
余計なものを削ぎ落とすように。
(選ぶ)
すべては拾わない。
一つだけ。
決める。
視線は、雪の中心。
肩でも、足でもない。
——芯。
その瞬間。
澪が、抜いた。
音は、ほとんどない。
ただ、空気が裂ける。
一直線。
迷いのない抜き打ち。
完璧な軌道。
雪の反応が、わずかに遅れる。
ほんの一瞬、上体を引く。
その刹那。
澪は空間を制し、振り上げ——
打ち下ろす。
——決まる。
そう見えた。
だが。
踏み込み。
雪の体が、わずかに外へ逃げる。
澪の刃が、雪の鎬を滑る。
刃は、雪の左をかすめる。
長刀が、最短で振られる。
——“決めの一撃”。
澪の首元に、袈裟斬り。
寸止め。
二人とも、そのまま制止する。
動かない。
静寂。
一拍遅れて、声が落ちた。
「……一本。勝者、本山雪」
澪は、静かに息を吐く。
立ち上がり、一連の動作へ。
血振り。
納刀。
開始線へと下がる。
対照的に。
雪は、その場に崩れた。
両膝から落ちる。
長刀が、手から滑り落ちる。
両手で顔を覆い——
声を上げて泣き出した。
「おとうさーん……!」
「澪ーーー!」
いつもの雪とは違う。
幼い子どものように、ただ泣きじゃくる。
止まらない。
審判も、戸惑う。
場内がざわめく。
観客席。
その中に、雪の父がいた。
「……」
何も言わない。
ただ、闘技場の雪を見ている。
その表情は、静かで。
優しく、温かかった。
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澪は、泣きじゃくる雪を見て。
小さく息を吐く。
そして、ぽつりと呟いた。
「……これじゃあ、どっちが勝者かわかんないじゃないの」




