外伝 静寂 ー執着のかたちー
金木犀の香りが
風に乗って道場を訪れる
一は木刀を握ったまま、動きを止めていた。
半歩。
踏み出す。
止まる。
――違う。
何度やっても、違う。
(分からない……)
父の動き。
あの“何もしていないような間”。
あれが、再現できない。
(俺は、何をやっている……)
足りない。
それだけは分かる。
だが、何が足りないのかが分からない。
ーーーー
梅の花に鶯がとまる
まだ、届かない
まだ、見えない
わからない
ーーーーー
桜の花が散る
人の笑い声と
吟醸の透明な香り
その香りにさえ苛立ち
を覚える
自棄感さえ起こる
胸の奥で苛立ちが燻る。
そのとき――
ばすっ
なにかを貫く乾い音
振り返る。
垣根
そこに先には、一人の女子。
手には弓
視点は的へ
静かに。
無駄なく。
一切の力みがない。
矢をつがえ
弦に指をかける。
その瞬間――
空気が、変わる。
彼女の周りの音が、消える。
風も。
気配も。
ただ――静かだ。
静寂。
弓は、そのまま放った。
――。
乾いた音。
矢は、的に突き刺さる。
再び風が動き出す
「……今のは」
一が呟く。
自分とは
違う…
一は
動けなかった
恥ずかしさに近い感情が
沸き起こる
的は的確に中央を貫いていた
射者の彼女には
喜びも
奢りも
自負も
満足な顔も
無かった…
視線は的へ向けたまま
ゆっくりと下がる
的に向かって一礼
女性の表情が緩む
垣根の向こうの
一に気がつく
眼が合う
軽く会釈
再び女性の目線は的へ
「あの…」
咄嗟に言葉が出てしまった
再び、一に視線が戻る
「あの… はじめまして…」
一から、場に合わない言葉
女性は不思議な顔をしながら
答える
「はじめまして…」
一は、戸惑う
どんな言葉を返せばわからない
彼女から
「どちらさまですか?」
「申し訳ない 自分は、橘一と言います」
「何か…御用でしょうか?」
「いえ… その…」
「なんていうか…」
「桜を見に来たら、音がしたので…」
嘘であって嘘ではない
桜は好きだが、わざわざ見に来たのではない
たまたま、足が向いただけ
音がしたから覗いたのは本当だ
続く言葉が浮かばない
暫くの無言…
「弓道にご興味が?」
「いえ…」
小声で
いや、違う…
彼女には……
自分とは、明らかに違う
気位
を感じた
「はい!」
はっきりと返す
女性が笑う
「弓を引いてみますか?」
「どうぞ、こちらへ」
ーーーーーーー
ばちぃん!
「ーーーつぅ!」
弦が一の頬を打つ
「大丈夫ですか?」
道子が笑いながら心配する
はじめて触る 弓
彼女は
春日道子
弓道を幼き頃より嗜んでいる
初めて弓に触れる一
弓は、矢をつけずに弦を引くところから
手ほどきしていた。
「的は見なくても良いのですよ」
矢を番えていない弓。
ただ、弦を引くだけ。
――それだけのはずなのに。
どうしても。
意識が、的へ向かう。
当てる。
射る。
――矢は、無いのに。
その思いが、居つく。
離れない。
止まらない。
ーーーーー
一が道子の元に通うようになって
三か月
蝉時雨の中に
乾いた音が、何度も響く。
――外れ。
――外れ。
――外れ。
「……またか」
一は、小さく息を吐いた。
矢は的の外、土に刺さっている。
風はない。
距離もいつも通り。
あたらない
後ろに風が流れる
振り返らなくても分かる。
春日だ。
見てくれている
弓は再び構える。
弦に指をかける。
引く。
狙う。
(当てる)
(外すな)
(外すな)
(外すな)
――射る。
音。
外れる。
「……っ」
わずかに歯を食いしばる。
「くすっ…」
春日の声 笑い声
柔らかい
いつも変わらない。
責めるでもなく。
慰めるでもなく。
ただ、そこにある。
それだけ。
静寂
弓はもう一度矢をつがえる。
(当てる)
(当てる)
(当てる)
(いや、今度こそ射抜く)
引く。
そのとき――
手が、震えた。
わずかに。
だが、確かに。
(……え?)
その一瞬で、狙いがぶれる。
射る。
外れる。
「……」
一は、弓を下ろした。
指先が、冷たい。
心臓の音が、うるさい。
呼吸が鬱陶しい
自分自身が
ーー邪魔だ!
「今日は、やめましょうか?」
春日が言う。
「……いえ」
首を振る。
「やります」
強く。
もう一度、弦を引いた。
打ち起こしに入る
(当てる)
(当てる)
(当てる)
――その瞬間。
「一さん」
一の動きを止める。
「……え?」
初めてだった。
春日が、止めたのは。
弓を下ろす
振り返る。
春日は、弓を見ている。
まっすぐに。
「それは、弓が可哀想ですよ」
静かに言う。
言葉が、刺さる。
「……ですが」
反射的に言い返す。
「当てなければ、意味が――」
「ないとでも?」
即答される
「当てることと、当たることは違うと思いますよ」
一は、言葉を失う。
意味が分からない。
だが――
何かが、崩れ始める。
ーーーーー
(「お前は今、“倒す事を”を恐れている」)
あの時の
父の声は、静かだった
「だから、壊してしまう」
矛盾している。
ーーーーー
春日の言葉
心から否定できない。
「……どうすれば」
声が、少しだけ震える。
春日は、少しだけ考えてから言った。
「一度、外しましょう」
「……え?」
「的を外しましょうか…」
理解が追いつかない。
「当てるな… と、言うことですか?」
春日は、しばらく黙る。
おもむろに立ち上がり
ゆっくりと弓を取り
的のない射場へ向かう
ゆっくりと、矢をつがえた。
所作を…行う
放つ
矢が的のない場へ置かれる
風が変わる
静寂…
「的… 無くても矢は離れますよ…」
「橘さん…」
「所作… 違ってましたか?」
一は、春日の意図がわからない
何故、敢えて的のない射場で
わからない
春日は、一の顔を見て
微笑む
「的 要りましたか?」
「えっ…」
的? 所作?
射るのだから的が無くて
意味があるのか?
無いだろ… 何を射るんだ?
所作なんて
当てるための動作だろ?
的がないなら、不要だろ?
違和感…
何故、ここに居る?
春日さんの射撃の腕を求めたのか?
違う… 違う…
春日が、一に、優しく微笑む
その微笑みにさえ、理解が追いつかなかった
だが――
何かが、ほどける。
半歩。
ほんの少しだけ。
迷いが、薄れていた。




