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ある冒険者の話  作者: 整腸剤神
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薬草採取 三

「がはっ!! は、あ……ッ!」


 自由落下は、崖の途中に生えた岩の突き出しによって無理やり止められた。

 背中を強かに叩きつけられ、肺の中の空気がすべて強制的に追い出される。焼けるような痛みと、目の前で火花が散る感覚。数秒間、息ができなくなる。

 音のない世界の中で遅れて痛みだけが押し寄せてくる。痛覚に支配されかけた頭でどうにか今の状況を理解する。

 胸の中には、泥と血にまみれた薬草の束が、まだ確かにあった。


「ふ……ふ、ふふふ。」


 喉の奥から、かすれた笑いが漏れた。

 

「け、計算通り……! 《魔狼》どもめ、まさかこんな逃走方法があったとは思うまい……!!」


 もちろん計算ではない。ただ運が良かっただけだ。

 崖の上からは、獲物を取り逃した狼たちの不機嫌そうな唸り声が響いてくる。岩壁を吹きつける風は強く、この小さな身体を崖下へと引きずり落とそうと絶えず揺さぶっていた。

 震える手で岩肌にしがみつきながら下を見た。地面は、まだ遠い。絶望的なほどに。

 崖を背にして座り込み、残された体力を振り絞って考える。

 選択肢は二つ。

 一つ目は、両手両足を使って慎重に崖を下りること。けれど、それには手に抱えた薬草の束が邪魔すぎる。これを捨てなければ、両手は自由にならない。それに、悠長に崖を降りていては──そもそもそんな高度な登攀技術が自分にあるかは別としてだが──王都へ着く頃には、身ごもった女の熱が引き返せないところまで上がっているだろう。

 二つ目は、薬草を抱えたまま、崖を滑り降りること。崖は 直角に近いが、わずかに傾斜はある。岩肌に身体を削られながら、最短距離で下りる。……いや、「落ちる」と言った方が正しいだろう。けれど、おそらく、不可能ではない。けれど、無事で済む保証なんてどこにもなかった。

 脳裏に嫌な光景がよぎる。かつて故郷の村で、鳥の卵を求めて岩壁を登り、転落した少年がいた。

 地面に横たわっていた彼は、手足があり得ない方向に折れ曲がり、腸が飛び出して、虚ろな目だけが何かを訴えるように空を見ていた。

 あんな風に、ひしゃげた肉の塊になるのか? 自分が? 見ず知らずの、誰かのために?

 

「は、ははは。もちろん、依頼主のために、ほ、《炎の娘》が、とる、道は。道、は……っ」

 

 言葉が続かない。歯の根が合わず、カタカタと情けない音が鳴る。自分はこの依頼を完璧にこなして、あの人のような、物語の主人公になるはずだった。王都の門を出たときは、間違いなくそう思っていた。

 けれど今、暗闇の中で絞り出した言葉は、あまりにも惨めだった。


「……い、い、いやだ……」


 一度言葉に出してしまうともう止まらなかった。

 胸の内が、どす黒い恐怖に埋め尽くされていく。


「こ、怖いっ」

 

 薬草を胸元に抱き締める。


「ボクには、ボクには……っ。できない……。ごめんなさいっ、でも、だって……!!」


 しばらく凍える風に煽られていた。薬草を抱えた腕を緩める。

 これを、ここに置いていったとして。

 一体誰が自分を責めるというのだろう? 自分はひ弱な新人で、できることはすべてやった。無理を通して、猪に追われながら森の近道を抜け、一度は薬草を手にし、ここにはいないはずだった狼たちと戦い、崖から落ちても手放さなかった。それだけでも十分ではないか?

 依頼達成と、自らの命。それを天秤にかけて、手ぶらで王都に戻ったとして、それが何の咎になるだろう? どんなに偉大な冒険者だって、一度くらいは失敗する。自分はそれがたまたま今回がそうだったというだけ。今回は、そう。身の丈に合わないことをしてしまったのだ。つい昔を思い出して、あの人のような英雄になれると思ってしまった。見ず知らずの誰かのために、鼻歌混じりに困難を乗り越えて、傷一つ負わずに生還し、無償の献身を誇りもしない。そういう英雄に。

 何を思い違いをしていたのか。自分は何の取り柄も、特別な力もなく、あの人と同じように他人の命を背負うには、あまりにも──あまりにも、ただの人間だった。

 立ち上がる。薬草の束を吹き荒れる夜風に差し出す。今手を離せば、それは強風にさらわれてばらばらになり、どこか見えない闇に落ちていくだろう。それで終わる。

 ごめんなさい、ボクは、貴方のようには……。

 ――その時。ふと、あの人のことを思い出した。


 厳しい冬の最中、死を待つだけだった自分の村に現れた、名もなき冒険者。彼は、険峻な雪山の頂にしか咲かない稀少な薬草を持って戻ってきた。そしてただ一度だけ、頭を無造作に撫でてくれた、その時のことを。


 どうして忘れていたのだろう? あの時、自分の頭をなでてくれた彼の指の幾本かが、黒ずんで欠けていたことを。それは凍傷によるものだった。彼は、名前も知らない少女を助ける代償に、その身体に決して癒えない傷を負ったのだ。

 どうして忘れていたのだろう? 彼は、無傷で余裕たっぷりにすべてを解決する、無敵の英雄などでは決してなく、自分と同じように簡単に傷つき、痛みを感じ、いつ道端で野垂れ死ぬとも知れない、ただの人間だったことを。

 どうして忘れていたのだろう。……自分は病床で読んだ物語本の中の英雄ではなくて、窓の外からやってきた、彼のようになりたいと思ったのだ。

 そして今、自分は、彼と同じ場所に立っている。

 冒険者として。

 涙と鼻水を服の袖で乱暴に拭った。

 心の中に、小さな小さな、けれど消えない火が灯るのを感じた。


「ボクは《炎の娘》……いや、違う。違う!!」


 そんな名前はいらない。本当に必要なものはもう分かっている。

「ボクは、冒険者だ。できないことばっかりでも、冒険者なんだ! 冒険者は!! 絶対に!!」

 自分の心臓の音を覚悟の合図にする。今心の中に灯った小さな勇気の種火が、やがていつかはもっと大きな炎になるように。

「自分が傷つくことを、何かを躊躇う理由にしたりはしない!!」

 薬草の束を、壊れ物を扱うように、でも決して離さないように抱きしめた。  そして、脚を崖下へ向け、突き出しから身を投げた。

 ――滑落。 身体が岩肌に叩きつけられるたびに、皮膚が裂け、肉が削れる感触がした。  速度が上がる。もはや制御なんてできない。終いにはほとんど転げ落ちる格好になりながら、ただ、腕の中の緑色の束だけを守り続けた。

 最後、麓の樹木が密集した場所に突っ込み、ようやく身体が止まった。


「……っ、ぁ、ぐっ……」


 うつ伏せの状態から、砂を吐き出し、右手をついて起き上がる。

 ……生きている。身体の状態を確認する。左の前腕が、歪に曲がっている。左の瞼は腫れ上がり、視界の半分が赤く染まっている。全身が、殴られたような打撲と鋭い切り傷で叫びを上げていた。

 口の中に溜まった血を吐くと、白い歯の破片が混じっていた。

 でも、内臓は無事だ。足もまだ動く。そして『星鈴草』は、一輪も欠けることなく、ここにあった。震える手で腰鞄から包帯を取り出し、右手と口を使って、折れた左腕を乱雑に縛り上げた。激痛に意識が飛びそうになるのを、唇を噛み切って繋ぎ止める。


「早く……行かないと……」


 右手に薬草を抱えて立ち上がる。一歩。また一歩。泥と血にまみれた足取りで、夜の森を歩き始めた。名誉にも栄光にも続いてはいない道。けれどずっと昔から、この道を歩きたいと思っていた。




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