薬草採取 二
命を賭した、それでいてあまりにも不毛な追いかけっこは、森を抜けた先にある小さな小川を飛び越えたところで、唐突に幕を閉じた。
小川を跳び越えた瞬間、肺が裏返るような息が漏れる。足がもつれ、そのまま膝をつきそうになるのを、意地の力でどうにか踏みとどまった。
振り返ると、対岸にあの巨大な猪がいた。 黒々とした体躯は、深まる薄闇の中でも輪郭を失わず、むしろ影そのもののようにそこに在る。不機嫌そうに鼻を鳴らし、蹄で地面を掻きながら、こちらを睨みつけていた。
だが、それ以上はもう踏み込んでこない。
どうやらこの無名の小川が、あの猪にとって絶対的な縄張りの境界線であるようだった。
「ふう……っ、はぁ、はぁ……。まったく、酷い目にあった……」
――助かった。その事実が、遅れて体の内側に染み込んでくる。
途端に膝から力が抜け、どさりとその場に腰を落とした。冷たい水音がやけに大きく聞こえる。鼓動がまだ速い。耳の奥で、自分の血の音がざわざわと鳴り続けている。
「……ふ、まあ今日はこのくらいにしておいてやる。《大地を踏み均す者》め。次に会った時はこうはいかない。せいぜい今夜は震えて眠るんだな!」
もちろん強がりで、震えているのは自分の身体の方だった。だが、そうでも言っていないと、今すぐその場に崩れ落ちてしまいそうだった。
猪はしばらくこちらを目に焼き付けるように睨んでいたが、やがて興味を失ったように一つ鼻を鳴らすと、森の奥へと消えていった。
その気配が完全に途絶えるのを待って、ようやく大きく息を吐く。
見上げた空は、燃えるような朱色を世界の端にわずかに残すのみ。頭上には、底冷えのするような深い藍色が、無慈悲に塗り広げられようとしていた。
時間を食いすぎた。心臓の鼓動が、今度は別の意味で速くなる。
急がなければならない。
王都では、しばしば熱病が流行る。世界のあちこちから人と富が集まるこの街は、同時に、各地から病もまた集めてしまうらしい。
今流行している熱病は、感染力こそ強いものの、致死性は低かった。健康な大人であれば、数日熱が出はするが、よく水を飲んで、食事に気を付けてさえいれば、命に危険はなく、自然治る。
けれどそれが、幼子や老人、病弱な者、あるいは──身重の女であった場合には、話が全く別になる。
「妻と子を助けてください。お願いです」
王都のギルド本部で会った依頼人の顔を思い浮かべる。
擦り切れた外套。指先が解れ、何度も何度も不器用な針跡で繕われた手袋。年季の入った財布を、震える両手で握りしめるようにして差し出して、自らよりもはるかに年下の少女に、「一日でも、一刻でも早く」と頭を下げていた、あの誠実そうな男の顔を。
星鈴草はそう珍しい薬草ではない。高価でもない。市場に行けば、昼食代程度の銅貨で手に入る。
だが今は違う。
熱病が蔓延し、人々が我先にとそれを求めた結果、星鈴草は王都から完全に姿を消していた。
もちろん、数日もすれば再び市場に流通するだろう。だがその数日を待っていては、彼の妻も、その腹の中にいるまだ見ぬ命も、熱の波に呑み込まれてしまう。
だから今、自分はここにいる。
今自分の双肩には、命がかかっている。かつてあの人が、窓辺の少女のために凍てつく雪山に上ったときと同じように。
泥に汚れた服のまま、息を整える暇も惜しんで、再び歩き出す。
丘を目指して。
目的地に着く頃には、風が明らかに変わっていた。冷たい。山から吹き下ろしてくる風が、衣服の隙間を容赦なく抜けていく。木々がざわざわと揺れる。その音は、どこか落ち着かない、不吉な響きを含んでいた。
だが立ち止まる理由にはならない。
視線を落とした先にそれはあった。逆さにした手鈴のような花。星鈴草だ。
しゃがみ込み、手早く、それでいて可能な限り丁寧に根元から摘み取る。 一つ、また一つ。焦りで手元が狂いそうになるのをどうにか抑えながら、正確に。
1本あたりの薬効は薄いらしく、ギルドから指定された数を揃えるころには、脇に抱えるほどの大きさになっていた。
想定していたよりも嵩張ったそれを、持参した麻紐で束ねて即席の花束にした。誇り高き初心者冒険者のための教訓。剣よりもまず縄と紐。
作業を終え、ようやく顔を上げると、周囲は死んだような夜の闇に沈みつつあった。
帰らなければ。夜通し歩けば、明日の朝日が昇るよりも早く、あの男の元までたどり着けるだろう。
そう思った、その時だった。
強まり始めた風が、木々の隙間を通り抜けて不気味な鳴き声を上げる。その音の合間を縫うように、空気を切り裂く鋭い音が響いた。
――アォォォーーン……。
「……まずいな」
背筋を、氷の指で撫でられたような戦慄が走った。
遠吠え。一つでは終わらない。最初のそれにこたえるようにあちこちから声が重なる。群れだ。
遠吠えの主たちにまだ気づかれていないことを祈り、薬草の束を抱えて足早に丘を降りようとする。だが遅かった。
闇の中から、こちらを囲むようにして、冷徹に光る金色の眼光がいくつも浮かび上がった。
狼だ。猪のような「力」の暴力ではない。奴らは、獲物を追い詰める術を知り尽くした、狡猾な狩猟者だ。
狼がこの辺りに出るという話は聞いたことがなかった。今年は雨があまり降らず、森の恵みも少なかったから、それだけ兎や鹿も少なく、彼らも獲物を求めて活動範囲を広めたのかも知れない。
黙って静かに後ずさりをする。距離を置いた分だけ、狼たちはゆっくりと近づいてくる。
腰帯から引き抜いたのは獣よけの松明だった。短く呪文を口にすると、仕込まれていた火術が反応してぱっと赤色の炎が爆ぜた。
念のために、と持たせてくれた赤髪の冒険者に感謝しなければ──無事に戻れたらの話だが。
炎を大きく振りかざしてみせる。しかし狼たちは全く臆する様子を見せない。
それどころか、こちらの恐怖を見透かしたように、つかず離れずの距離を維持しながら、じわじわと輪を狭めてくる。
逃げ道を求めて視線を逸らした、その一瞬。横から跳んできた影に、左腕を捕らえられた。
「ぐっ!?」
革の腕甲を、狼の鋭い牙が容易く貫いた。肉に突き刺さる熱い痛み。悲鳴を喉の奥に飲み込み、痛みに顔を歪めながら狼を振り払う。
打ち払われた狼は大人しく飛び退いた。だがその目は変わらない。
これは獲物を仕留めるための攻撃ではない。それは、獲物をじわじわと疲れさせ、心を折り、逃げ場所を奪う、彼らの狩りの始まりだった。
狼が飛びかかろうとする。それを松明で牽制する。隙を突かれて足に嚙みつかれ、それを蹴り飛ばす。 包囲は完璧ではなく、常にどこかに穴があった。だがそれは逃げ道ではなく、彼らが意図的に作った誘導だった。獲物は、包囲網から抜け出ようとして、徐々に追い込まれていく。
松明での牽制と迎撃を繰り返しながら、包囲から抜け出ようと後退を続けるうちに、気づいたときにはもう、背後に何もなくなっていた 。
振り返ると、そこには世界を切り取ったような崖が口を開けていた。
しまった、と思ったのと同時に、ぐらり、となんの前触れもなく、視界が揺れた。
足元の土が崩れたと理解する前に、空と地面が逆転し、不吉な浮遊感が全身を包んだ。数瞬後、寄る辺のない身体が、誘われるように崖下へ。
声は出なかった。あるいは、夜風にかき消されたのかも知れなかった。




