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ある冒険者の話  作者: 整腸剤神
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薬草採取 一

 上位の位階を授けられた熟練の冒険者たちが、かつては通り、今や縁遠いであろう依頼というものがいくつかある。そのひとつが薬草採取だ。

 何らかの理由で市場での流通が滞った薬草を、その自生地まで赴いて採取し、新鮮なうちに届ける。地図が読めて、薬草の同定さえ正確にできれば、誰にでも、それこそ冒険者になりたての少女にだってできるはずの、平和な依頼。  

 その道中。

 私は、冒険者になって以来、かつてないほどの死線に立たされていた。

 場所は王都から歩いて半日ほど。深い緑に沈んだ北の山林。依頼は熱病に効く薬草、『星鈴草』の採取。 秋の乾いた風が梢を渡り、葉擦れの音が心地よく続く、穏やかな遠出になるはずだった。

 そこに、あの魔物──当時はそう思っていた──が現れるまでは。

 《大地を踏み均す者》。

 またの名を、ただひたすらに巨大で凶暴な野猪。

 哀れな新人冒険者は、薬草の群生地である目的地の丘に向かう途中、知らず知らずのうちに、その巨体が絶対的な王として君臨するその縄張りに入り込んでしまっていたのだ。


「うおおおおおおやめろおおおおおおお!!  な、なんでそんなに追いかけてくるんだ!?  ボク君になんかした!? いいやしてない! 心当たりが一個もない! でももし何か気に障ったんなら謝るから、今すぐボクの存在を忘れてお願いーーーー!!」


 叫び声は秋の森に霧散して消える。

 背後から迫る重くて速い蹄の音。どすどすと大地を踏みならす振動が、地面を通じ、足裏から骨を伝って心臓を直接叩いてくる。湿った土が弾け、枯れ葉が舞い上がり、鼻を突く獣臭が追いかけてくる。

 ちらりと肩越しに振り返れば、猪の血走った眼球は怒りに煮え、侵入者を必ず肉塊に変えるという黒い殺意が爛々と輝いていた。鼻からは猛々しい蒸気を噴き出し、泥を跳ね上げる鋭い牙は、獲物の脇腹を抉る機会を狙ってぎらついていた。

 視線が合った瞬間、全身の毛穴が総立ちになる。


(無理無理無理無理無理!!)


 もつれる森の中を駆けずり回る。堆積した枯れ葉に足を取られて転がり、口の中に土と腐葉の味が広がる。吐き出す余裕もなく、咳き込みながら這いつくばって立ち上がった。

 枝が頬を裂き、低木が足に絡みつく。

 木々の陰に隠れようにも、猪の巨体を前にしては、小枝のように頼りない。

 岩の隙間に滑り込むように身を押し込んだ。直後、耳をつんざくような衝撃音。火花が散るような音と共に、猪の角が岩肌を削り、硬質な破片が頬を掠めて飛んだ 。

 一瞬、猪の足が止まる。あまりに悲惨で想像したくない未来が、ほんの数秒先送りになった。


(まずいまずいまずい! こ、このままではボクの伝説が第四章「猪の餌」で終わってしまう!)


 肺が焼けるように熱い。喉が乾き、呼吸は浅く速く、視界の端がじわじわと暗くなっていく。足も、さっきより確実に重い。 どう贔屓目に見ても、この森の主を相手に持久力勝負で勝てる要素がない。

 その時、視界の端にそれが飛び込んできた。一本のブナの巨木。 低い位置から突き出した、太く、頼もしげな枝。

 これだ!

 思考より先に身体が動いた。 岩陰から飛び出し全力で駆ける。背後で蹄が地面を抉る音が跳ねる。

 泥まみれの手で、苔むしたその幹にしがみついた。湿った苔が指の間で潰れて滑る。

 登れ。登れ登れ登れ。このくらいの木、村でも散々登っただろう!

 脳裏に、火典に描かれた光景がよぎる。地獄の業火に追われ、救いを求めて聖人に縋りつく哀れな罪人。

 腕と足を総動員して、どうにか枝の上へと身体を引き上げる。肺が裂けそうなほどに空気を吸い込み、震える身体で下を見下ろした。

 案の定、猪は木を登る術を持たず、ただ下で憤怒の鼻息を立てている。硬い蹄が樹皮を削る不快な乾いた音が響く。

 しかし牙は、枝の上には届かない。


「ふ、ふははは!  み、見たか、愚かな魔物め!  これぞ《炎の娘》の知略……一流の戦士とは地形を味方につけるものなのだよ。どうやらその身をもって学んだようだなぁ!」


 震える声を無理やり笑いに変えると、喉の奥に張り付いていた恐怖が、少しだけほどけた気がした。

 これぞ知性の勝利。圧倒的逆転。完璧な一手。

 そう思った。しかし、勝利を味わう時間は、心臓が十回脈打つほどに短かった。

 猪は止まった。そして、こちらを見上げたまま、ゆっくりと後退する。


「……あ」


 嫌な予感がした。

 その猪は決して「愚か」ではなかった。 巨木に登れないと理解するや否や、彼は数歩後退し、その巨体を投石機から打ち出される岩のように加速させ、真っ向から幹にぶつけ始めたのだ。何度も何度も、力強く。 

 一度、二度。衝突のたびに、枝の上の世界が激しく揺れた。


「……あ、ちょっと待ってそれだめ! それはなし!」

 

 老賢人のように静かに立っていた巨木が、ばきばきと無残な悲鳴を上げた。


「やめて!  折れる!  こいつめ、木が可哀想だとは思わないのか!」

 

 必死の説得も虚しく、 視界が大きく傾いた。放り出される身体。高みの見物はあっと言う間に幕を閉じた。幻同然の、束の間の勝利。

 枝から投げ出され、空と地面が反転する。ほんの一瞬、身体が浮かび上がるような感覚。直後、地面にお尻を叩きつける強烈な衝撃。息が詰まり、視界が白く弾けた。痛みが遅れて全身を駆け抜ける。呻きながら顔を上げる。

 目の前にあったのは、さっきよりもずっと大きく見える、猪の血走った眼球だった。

 ひきつった顔で笑ってみる。

 死を覚悟した精一杯の微笑み。 だが猪は、笑みを返す代わりに、慈悲のかけらもない動作で、 再び蹄で地面を力強く蹴った。


「う、うわあーん!  ご、ごめんなさいごめんなさい、愚かとか言ってごめんなさいぃー!!」



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