薬草採取 四
どうやって王都まで帰ったかは、正直なところ、記憶が断片的でよく覚えていない。
ただ右手に握りしめた『星鈴草』の、夜露を吸った冷たさ。そして、左腕の奥から絶え間なく脳を叩きにくる、心臓の鼓動と同期した激痛。その二つだけが、意識をこの世界に繋ぎ止めていた。
寝食を忘れ、泥を啜り、ふらふらと幽霊のように歩き続けた。
道中、何度も心が折れかけて、その場にうずくまって休もうとした。けれど、そのたびに震える足で無理やり地面を蹴った。意地だけがこのときの自分のすべてだった。
王都に辿り着いたのは、白み始めた夜明け前だった。
重厚な石門を潜り、迷路のように入り組んだ路地を抜けて、ようやく目的地に辿り着く。依頼人の男の家。
力なく、けれど確かに、扉を叩く。内側から鍵の外れる音がして、扉がゆっくりと開かれた。
最後に見たのは、早朝の訪問者に驚き、その姿を見て絶句する依頼人の男の顔だった。
そして部屋の奥から聞こえた女の声。その声を聞いた瞬間、心臓を縛り付けていた、張り詰めた糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
生きている。間に合ったのだ。
安堵が、猛烈な暗闇となって押し寄せてくる。返事をすることさえできず、吸い込まれるように、正面に向けてどさりと倒れ込んだ。
目を覚ましたのは、翌日の昼前だった。
鼻を突く消毒液の匂い。見上げた天井は、王都の治療院のものだった。先々月に、かびた麺麭を食べて運び込まれて以来だ。
左腕を持ち上げようとする。けれど、驚くほど重い。 腕には添木が当てられ、包帯がこれでもかというほどきつく、厳重に巻かれている。
寝台の脇では、老齢の治療師が、ボクの意識が戻ったのを確認するなり、お説教のような問診を始めた。 「若いからといって無茶が過ぎる。まったく近頃の冒険者と来たら…」何度も繰り返される小言を、どこか遠い国の出来事のように聞き流しながら、ただあの夫婦とお腹の子がどうなったのか、それだけが気がかりだった。
午後遅くになり、依頼人の男が、申し訳なさそうに帽子を握りしめて見舞いに訪れた。自分を治療院まで運んでくれたのも彼だったという。
「……本当に、なんと申し上げてよいか。あんな怪我までして、届けてくださったのに……」
男は、ベッドの脇で何度も何度も頭を下げた。
「……そうか。ほかの冒険者が、ボクより先に」
彼が語るには、自分が辿り着く数時間前に、他の冒険者が、別の自生地で採取した薬草を、すでに彼に届けていたのだという。そのおかげで、彼の妻の熱はすでに引き、お腹の子も、もう大事はないと医者に太鼓判を押されたとのことだった。
寝台の上で、天井を見る。つまり、自分が運んできたあの薬草は、結局、誰を救うこともなかったわけだ。
「申し訳ありませんでした! 少しでも早く、確実に薬を手に入れるためには、どうしても……。貴方への報酬は、必ずお支払いします。治療費も我々が」
男がまた頭を下げた。
「いやいや、気にしないでくれ。当然のことさ。奥さんが無事で、本当によかった」
それが強がりではなかったと言えば、やはり少し嘘になるかもしれない。けれど、男の妻の無事を心から喜ばしいと思ったのも、また本当だった。
男が何度も謝罪を口にして、それを手で制しながら首を振ることを何度か繰り返した。
「ああそうだ。ボクの薬草も、念のために受け取ってくれ。またぶり返すこともあるかも知れないし、ボクが持っていても仕方のないものだから。……うん、本当に良かった。元気な子が生まれるよう、ボクからもお祈りをさせてくれ」
右手だけで、簡略化した火の祈りを捧げた。
遠くない未来に生まれてくる命が守られた。それが誰の手によるものであれ。今それ以上を望むのは、いささか贅沢というものだろう。
「──っていう感じでね! 生意気な猪を血祭に上げて、狼どもをばったばったと切り捨てたんだけど、不覚にも崖から落ちちゃったってわけ。で、これ」
メアリに多少の脚色を交えた冒険譚を話しながら左腕を上げ、右手で指させて見せる。
彼女は、なんとも言えない白けた顔でこちらを見ていた。
「へえー、それはそれは。……で、それどこまで本当なの」
ぎくり、と肩が震える。口笛を吹いて誤魔化そうとしたが、掠れた音が空しく鳴るだけだった。
しばらくの間沈黙が流れてから、メアリが口を開いた。
「まあ、いいけどさ。あんたが自分のことちゃんと話そうとしないの、いつものことだし」
メアリが椅子から立ち上がった。本繻子 の裾が、さらりと揺れる。
「……こういうの、もうやめにしたら? いつか本当に死ぬかもよ」
何も言えずに笑った。自分の身を案じてそう言ってくれるメアリの優しさが嬉しくて、無碍にしたくはなかったけれど、かと言って嘘をつくこともできなかった。
メアリが、腰に手を当ててはあーと深くため息をついた。
「わかった。もういい。勝手にしな」
突き放すような言葉は、柔らかい諦めの響きを含んでいる。
「ごめんね」
「はん。思ってもいないくせに」
メアリがふ、と笑った。手をひらひらさせて出口に向かう。
「じゃーね。思ったより元気そうだから、もう退院するまで来てやんない。せいぜい退屈とオトモダチになりなさい」
「えーそんな! また来てよ。本とかも持ってきて!」
メアリがべっと舌を出して、扉が閉まる。彼女がいなくなったあとの病室は、一層静かに感じられた。
同室の患者たちに、うるさくしてごめんなさい、と謝ると、いいさ、友達は大事にな、と温かい返事があった。
夜。月明かりが差し込む病床。
不格好な左腕を天井に向けて伸ばす。巻かれた包帯にところどころ血が滲んでいる。
治療師は、この腕はもう元通りには動かないかもしれないと言った。神経を痛めたらしく、特に指先の繊細な動きは失われる可能性があると。
けれど心は、不思議なくらい満たされていた。今はこの情けない腕の有様が、どんな名誉ある勲章よりも誇らしく思える。
痛み止めの術式が切れかけてじわじわと滲み出してきた鈍い痛みも、結局のところ自分の献身が誰かを救ったわけでもないことも、今のこの思いを些かも霞ませはしない。
冒険者になってから初めて、自分自身のことを、心の底から誇らしいと思うことができた。いつか馬小屋でひとり泣いた夜とは違い、今日はきっとよく眠れるだろう。
腕をゆっくりと寝台に下ろし、瞳を閉じた。 意識が眠りの闇へと溶けていく間際にふと思う。
いつかもし出会うことがあったらあの人は、この冒険を褒めてくれるだろうか。




