EP 6
「魔皇国の将軍が、競馬好きのオヤジに変貌するまで」
その男は、影を纏って現れた。
ルナミス帝国の辺境、ルナ・イーツの拠点前に、突如として闇の霧が立ち込め、そこから黒いタキシードに身を包んだ優雅で、それでいて底知れぬ殺気を孕んだ貴公子が姿を現したのだ。
彼の名はルーベンス。アバロン魔皇国が誇る将軍の一人であり、魔王ラスティアの腹心。狡猾にして現実主義、皮肉屋の貴公子として恐れられる存在だ。
拙者、佐須賀良樹は、ちょうど魔導車のメンテナンスを終えたところだった。
影から現れた貴公子を見て、拙者は思わずハタキを握りしめる。
(ひっ……!? なんだあの格好! 闇魔法の使い手でござるか? もしかして、また変な税金の取り立て屋か、それとも夜道の用心棒か!? とにかく、関わっちゃいけないタイプの人でござる!)
拙者の内心は、今日も今日とて悲鳴を上げていた。
元牛丼屋のワンオペ経験者である拙者は、こういう「顔色が極端に悪い、育ちの良さそうな客」が一番苦手なのだ。大抵、面倒なクレームを言ってくるか、無理難題を突きつけてくるに決まっている。
「……ここが、竜王デュークが頻繁に通い、あろうことか『見習い女神』まで堕落させて皿洗いをさせているという、いわく付きの辺境拠点か」
ルーベンスは、優雅な仕草でポポロシガーを指先で回しながら、拠点の様子を冷ややかに見下ろした。その瞳には、獲物を狙う蛇のような鋭い光が宿っている。
「拙者、しがないルナ・イーツの配達員でござる。何かお探しでござるか? あ、もしかして税金の査察でござるか? ちゃんと領収書は整理してあるでござるよ!」
拙者は腰を低くし、精一杯の愛想笑いを浮かべた。
ルーベンスは鼻で笑った。
「税金だと? 笑わせる。我はアバロン魔皇国、将軍ルーベンス。貴様のような底辺の人間が、魔族の威信を揺るがす『真の目的』を隠しているのではないかと、視察に来たまでだ」
彼は右手を軽く振るうと、地面から黒い霧が立ち昇り、蛇のような形を成して拙者の魔導車を絡め取ろうとした。闇魔法である。
拙者は反射的に、手に持っていたホウキを振り回した。
「わわわっ! また変な手品でござるか!? 配達用の魔導車でござるから、どうか壊さないでほしいでござる!」
拙者が慌ててホウキで影の蛇を叩き落とすと、不思議なことに影は霧散した。
ルーベンスが目を見開く。
「……今の、魔法を無効化したのか? いや、ただのホウキに、闇魔法をかき消す神聖な力が宿っているのか……? 底が知れぬ……やはり、ここの住人は異常だ」
ルーベンスは、良樹のただの凡ミス(ただホウキを振り回しただけ)を、高等な技術と誤解した。
彼は皮肉屋として生きる中で、あらゆる強者を観察してきた。だからこそ分かる。本当に強い者は、わざわざ強さを誇示しない。この青年は、あまりに自然に、あまりに無自覚に「強者の領域」に立っているのだ。
「……ふっ。貴様のその器、見極めさせてもらおう」
ルーベンスはポポロシガーの煙をふぅと吐き出すと、気だるげに丸椅子に腰を下ろした。
「腹が減った。何か食わせろ。魔族の将軍を満足させられぬようなら、その時は……貴様のその拠点の秘密、バラバラに解剖してでも暴いてやる」
なんと理不尽な要求だろうか。拙者は泣きたくなりながら、とりあえず『丼マスター』のシステムを開いた。1000DPで何を出そうか。今日という日は、どうやら最強の丼を出すしかないようだ。
「『丼マスター』発動! 来たれ、日本のソウルフードの王様でござる!」
召喚されたのは、秘伝のタレでじっくりと煮込まれた、牛バラ肉たっぷりの『究極の牛丼』である。
湯気とともに立ち昇る、醤油とみりん、そして玉ねぎの甘い香り。仕上げに紅生姜を添えたその姿は、前世の記憶に刻まれた、あの「最高の晩餐」そのものだった。
「これは……?」
ルーベンスは疑い深げにスプーンを口に運んだ。
だが、次の瞬間、彼の貴公子然とした仮面は粉々に粉砕された。
「……ッ!? この味は……! 醤油の芳醇な香りが、噛むほどに溢れる肉の脂と混ざり合い、米麦草の甘みと完璧なハーモニーを奏でている……!」
一口。また一口と、ルーベンスの手が止まらない。
これまでの冷徹な皮肉屋の面影は消え失せ、彼は一心不乱にどんぶりをかき込んでいた。
「美味い……! 美味すぎるッ! アバロン魔皇国に戻れば、この十倍……いや、百倍の価値のある料理などいくらでも食えるはずだというのに、なぜか……なぜか止まらん!」
完食し、どんぶりを空にしたルーベンスは、呆然とした様子で空っぽの丼を見つめていた。
彼の目には、先ほどまでの「魔族の将軍」としての鋭い殺気など微塵もなかった。ただ、一人の「美味しい飯にありついたオヤジ」の顔があるだけだ。
「……おい、お前。この店には……『イモッカ』はあるか? それと、これに合うもっと刺激的なものはないのか?」
拙者は戸惑いながらも、棚にあったイモッカ(度数40度の芋焼酎)を差し出した。
ルーベンスはそれをラッパ飲みすると、プハァッと息を吐き出し、ポポロシガーを燻らせた。
「……極上だ。競馬新聞はないか? ポポロ村のルナミス競馬場中継を見ていたんだが、昨日のオッズが気になってな」
その瞬間、入り口から聞き覚えのある声がした。
「おお、ルーベンスではないか! 奇遇だな。私も今、昨日の最終レースの結果を確認しようと思っていたところだ」
現れたのは、竜王デュークだった。彼はいつものようにいかついイケオジの姿で、手にはラーメンの出前容器……ではなく、競馬新聞を握りしめている。
「デューク……貴様もか。貴様もこの味に釣られたのか?」
「無論だ。この牛丼とイモッカの組み合わせは、アバロンの酒池肉林など足元にも及ばん」
二人の魔族と竜王が、道端の丸椅子で競馬新聞を広げ、膝を突き合わせてあーだこーだと言い合う光景。
拙者はその隣で、皿洗いを終えたばかりの元勇者ゼロスと共に、呆然と立ち尽くすしかなかった。
「……勇者殿。我々、いつのまにか場末の競馬おじさんたちの溜まり場になってしまったでござるな」
「……ああ。俺も、以前は正義の勇者だったはずなんだがな。不思議と、この牛丼と競馬の話題を聞いていると、魂が落ち着くんだ」
ゼロスも完全に角が取れたというか、悟りの境地に達している。
ルーベンスは、競馬新聞を指差しながら、デュークと熱弁を振るい始めた。
「昨日の第7レース、あの『ロックバイソン』の逃げ切りは予想外だった。だが、調教の様子から見れば、あの筋肉の躍動は、後半のバテを想定した計算されたものだったはずだ!」
「いや、あれは騎手の魔力の使いすぎだ。だが、最後のカーブで加速したのは、間違いなく血統の力だろう。……次はどうする? 次のレースでは、あの子に賭けるか?」
かつての魔族将軍と、世界の調停者が、路上の丸椅子で肩を組み合って酒を煽っている。
ロード氏は、その光景を横目で見て、やれやれと首を振った。
「ヨシキ、お前、世界最強のギャンブル依存症たちを育ててもうたな」
拙者はただ、ハーモニカを取り出し、彼らの議論をBGMにするように、寂しげに『荒城の月』を奏でた。
今の彼らには、このメロディこそが最高の癒しなのだろう。
「……で、あるか。まあ、仲良くやってくれるなら、それが一番でござるよ」
ルーベンスは、ポポロシガーの煙をくゆらせながら、拙者を見上げてニヤリと笑った。
「気に入った。この拠点は、我が魔皇国軍の……いや、我が『個人的な』視察拠点とさせてもらう。週に一度、競馬新聞を持ってくる。その代わり、この牛丼と、最高に美味い『つまみ』を用意しておけ」
彼は、影を召喚して去ろうとした。
しかし、去り際に彼は、昨日、ミラース将軍(あの古い親父キャラの)が拙者の拠点を視察に来て、結局何もせずに帰ったという噂を思い出した。
「おい、ヨシキと言ったか。一つ忠告しておく。ミラースが来たという話を聞いた。奴は、お前を斬ろうとしてやめたらしい。……奴は、お前が『次元を切り裂く剣』をホウキ一本で受け止めたと勘違いしている」
拙者はホウキを抱えて首を傾げた。
「……それは、ただの掃除でござるが」
「それでいい。その無自覚さが、奴らを一番狂わせるんだ」
ルーベンスはそう言うと、闇の中に消えていった。
彼が去った後、ポポロ村の静寂が戻ってきた。
相変わらずリリスは皿を洗い、デュークは競馬新聞を読み、元勇者ゼロスは皿を拭いている。
「……相変わらず、拙者の周囲は勘違いばかりでござるな」
私は最後の一杯のイモッカをチビチビと飲み干し、夜空を見上げた。
だが、この平穏も長くは続かない。
村の境界にある『ルナミス帝国の魔導防衛フィールド』が、何かに反応して赤く警告音を鳴らしている。
それは、ただの美食家たちの争いではない。もっと巨大な、神界からの直接的な悪意。
「ロード氏、何か来たでござるか?」
「おん。今度はちょっと、厄介なのが来よるで……」
遠くの夜空を切り裂くように、黄金の雷光が走った。
炎上神ワイズの放った、新たな刺客。それは、これまでのギャンブル中毒の将軍たちとは全く違う、もっとも残酷で、もっともビジネスライクな破壊者。
この辺境の拠点は、いよいよ本格的に、神々すらも巻き込んだカオスへと足を踏み入れていく。
「まぁ、何が来ても、丼さえあれば何とかなるでござるよ」
拙者は力なく、だが自信満々にハーモニカを吹いた。
次の客人が、一体どんな『丼』を所望するのか、楽しみに待つことにするでござる。
* * *
(天界会議室にて、ワイズ神のパソコン画面)
ワイズ神は、モニターに映る「競馬に興じる将軍と竜王」の姿を睨みつけ、画面の前のキーボードを破壊せんとばかりに叩きつけた。
「クソッ、クソッ、クソォォォォッ!! なんだあの光景は!? なぜ、魔族の将軍と竜王が仲良く競馬の予想をしているんだ!? これじゃあ僕の演出した『魔族と獣人の種族間闘争の泥沼』なんて、影も形もないじゃないか!!」
ワイズは、自身のチャンネルの登録者数が急激に減り、アンチコメントが埋め尽くされていることに絶叫した。
「すべては、あの配達員だ。あの配達員が丼を出すたびに、世界の均衡が崩れる……! 次こそは、絶対に逃さない。僕の契約勇者ミラースを使って、あの拠点ごと……いいや、あの配達員を……徹底的に炎上させ尽くしてやる!!」
ワイズの執念が、さらなる悲劇(という名の、良樹にとっては困惑の日常)を生み出そうとしている。
だが、そんな神の陰謀など、良樹は知る由もない。彼は今、リリスに頼まれて、次の配達用バッグの中身を詰めるのに忙しいのだから。
「勇者殿、明日の注文はチャーシュー丼大盛り3つでござる。準備を頼むでござるよ!」
「ああ、任せてくれ。皿洗いよりも、このカツ丼を作る作業のほうが、俺の生きがいかもしれない……」
辺境の拠点は今日も、魔族、女神、元勇者が混ざり合う、奇妙な調和の中にあった。
だが、その調和を破壊すべく、ミラースの影が、ポポロ村の地面からじわりと這い上がろうとしていた。
……さぁ、明日の賄いは何にしようか。
そんなことを考えている良樹の背後で、ロード氏は小さく爪を研ぎ、来るべき敵への備えを整えていた。
関西弁の最強の始祖竜が、配達用バッグを担いで立ち上がる。
この夜は、何かが起きる。そんな予感を孕みながら、物語は次へと続くのである。
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