04. 交わらぬ視線が残す予感
扉の閉まる重い音が、鼓動を急かすようにいつまでも耳の奥で鳴り響いている。
静かな部屋の中は、雪の降る朝のような寄る辺のない冷たさが満ちているかのように感じられた。
伸ばしたままのチェリーの指先は、温もりを求めるように空を掻いて、行き場を失って力なく垂れ下がる。
(キウイさんは……私のお返事を待ってくれている……の、ですよね?)
縋るような自問自答に対する答えは、当然のごとく返ってこない。ただ胸の奥に広がる正体不明の不安が、泥のようにじわりと心を侵食していく。
「チェリー」
背中からかけられた聞き慣れた穏やかな声に、まるで隠し事を見咎められた幼い子のようにぴくりと肩が跳ねる。
振り返ると、いつの間にかソファから立ち上がっていたサクラが、心配そうに覗いていた。
――悩んでいる暇はない。
自分は栄えある、この国の姫の専属メイドなのだから。
そう自分に言い聞かせ、チェリーは取り繕うように、不自然な笑顔を顔に貼り付けた。
「す、すみません。少々考え事をしておりました。ルリ様が湯浴みから戻られるまで、紅茶を飲んでお待ちになりますか? 今、おかわりを……」
震える指先でポットに手を伸ばそうとした、その時。無理やり紡ぎ出した言葉を遮るように、ふわりと、甘いフリージアの香りに包みこまれた。
小さな時からずっと共に歩んできた主の、誰よりも優しい温もりが、チェリーの強張った心を溶かしていく。
「チェリー。二人に何かあったのかを無理に聞こうとは思わないわ。……けれど、そんなに今にも壊れてしまいそうな顔をしないで」
「あ…………」
サクラの胸の中で、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
視界が一瞬にして歪む。耐えようと噛み締めた唇からは、熱い息が次々と溢れ出していった。
「ご、ごめん、なさい、わ、わたし……っ」
「いいのよ、チェリー。落ち着くまでこのまま待ってるから」
キウイと唇を重ねてから今まで、心の中に澱のように溜まっていたものをすべて吐き出すように。
チェリーはしばらく、サクラの胸の中で嗚咽を漏らし続けた。
どれほどそうしていただろうか。
子どものように泣きじゃくっていたチェリーは、サクラの温もりに甘えることでようやく波立つ心を引き戻し、おずおずと顔を上げた。しかしその瞳には、今もなお動揺の火が揺らめいている。
「も、申し訳ありません……。私、メイドなのに、とんだご迷惑を……」
「迷惑だなんてとんでもないわ。私たち、家族みたいなものでしょう?」
サクラは木漏れ日のような微笑みを向け、チェリーの頬を伝う雫をそっと拭った。
「ねぇ……何があったのか……教えてくれるかしら」
「それ、は…………」
まっすぐに見つめられ、チェリーは言葉を詰まらせた。
これは、キウイと自分の、個人的な話だ。軽々しく口にすれば、有能な同僚であるあの人の尊厳に関わるかもしれない。
けれど、唇に残るあの柔らかな熱が、今もチェリーの理性を焼き切ろうとしていた。
誰かに、この重すぎる事実を分かち合ってほしい。そうでなければ、自分という存在が足元から崩れ去ってしまいそうだった。
「わ、わたし……キウイさんに……き、キス……されたんです……」
震える声で紡がれた言葉は、まるで隠しきれなくなった罪の告白のようだった。
一度口にしてしまえば、堰を切ったように言葉が溢れ出す。
「それに、私のこと、ずっと、好き、でした、って…………っ。サクラ様、わたし……っ」
その言葉を聞いたサクラの薄紅色の瞳が、わずかに驚きに揺れた。
常に冷静沈着で、魔法理論を極めることのみに心血を注ぐ、あのキウイが――色恋沙汰になど興味がなさそうなあの人が、感情を剥き出しにして、チェリーに触れた。サクラにとっても、それは全く想定外の出来事だったのだろう。
しかし、主はすぐにその驚きを胸の奥へとしまい込み、凛とした穏やかさを纏った。
「そう、なのね……。チェリーはそれで、どう返したのかしら」
「私、お返事をすることが、できなかったんです……。だって、キウイさんを、そういう風に、見たことがなくて……っ。私もう、どうすればいいか、わから、なくてっ」
一度は枯れかけた涙が、再び決壊したように溢れ出す。
サクラは何も言わず、ただチェリーの頭を優しく撫で続けた。
「答えは出せそう?」
「……もう少し、時間が欲しい、です。私……ちゃんと、キウイさんの気持ちと、向き合いたいんです」
「そうね……チェリーは優しいものね」
サクラはそう言いながら、どこか哀しげにため息をついた。
「でも、私は……そうすればいいって、素直に背中を押してあげることはできないわ」
「そんな……どうしてですか」
縋るように揺れるチェリーの瞳を、サクラがまっすぐに見つめ返す。
「キウイがルリの専属メイドになってから、ずっと近くで過ごしていたけれど……私、あの娘の気持ちに微塵も気づかなかったのよ。それほど深く隠していた想いを告げたのは、とても勇気が必要な行為だったのでしょうね」
「はい……」
「きっと今まで隠し続けていたのは、他でもない……チェリー、あなたのため。想いを告げたら、あなたを困らせる、迷惑になると考えていたからよ。だからこそ、その決死の想いが届かなかったと感じたら……キウイはあなたの目の前から、姿を消してしまうんじゃないかしら」
「…………っ」
その言葉が鼓膜を叩いた瞬間、チェリーの頭は真っ白になった。
キウイが、いなくなる。
これからの未来は二択だと思い込んでいた。
キウイと恋仲になるか、あるいは、気まずさを乗り越えて今まで通りの同僚に戻るか。
けれど、サクラが静かに提示した第三の選択肢は――当たり前のように隣にいたキウイの存在が、自分の未来から完全に掻き消えてしまうという、あまりにも重い現実だった。
胸の奥を鋭い焦燥が容赦なく掻き乱し、まるで部屋の空気が一瞬で希薄になったかのように、喉の奥がひりついて上手く息が吸えない。
その時、静まり返った室内に、扉をノックする音が冷たく響いた。
「ルリとキウイが戻ってきたみたい。さあ、今度は私たちが湯浴みに行きましょう、チェリー」
「あ……は、はい、サクラ様……っ」
「大丈夫。落ち着いて、息をして。チェリーの本当の気持ち、一緒に整理しましょう」
サクラはチェリーの冷たくなった手を引き、ゆっくりと歩き出した。
開かれた扉の向こう、廊下の淡い光の中で、ルリとキウイの姿とすれ違う。
サクラはキウイの視線から、赤く目を腫らしたチェリーを庇うようにして隣を歩いた。
チェリーはほんの少しだけ、主の影からキウイの横顔を覗き込んだ。
目が合うことは、なかった。
まるでそこに最初からチェリーという存在などなかったかのように、無機質に前だけを見据える緑の瞳は、全ての迷いを無理やり断ち切ったようにさえ見える。
――あなたの目の前から、姿を消してしまうんじゃないかしら。
サクラの予言が、呪いのように脳裏で木霊する。
チェリーは上の空のまま、ただサクラの引く手に導かれるようにして、冷たい廊下を歩き続けた。




