05. チェリーの決意
とろりとしたシャンプーを手に垂らし、体温で温めながら手のひらで白く細やかな泡を立てる。そしてそっと、サクラの髪を優しく包み込んだ。
手慣れたいつも通りの動作、そして嗅ぎ慣れたいつも通りの香りが、チェリーの昂ぶった頭を落ち着かせるようだった。
「ふふっ……。チェリーと二人きりの湯浴みって、久しぶりね」
「たしかにそうですね。ルリ様と、キウイさんと……いつも、一緒でしたから」
その名前を口にした時、一瞬だけ喉の奥で息が詰まった。
「私、やっぱり、まだ……わからないんです。お付き合いするというのが、どういうことか」
チェリーの迷いを孕んだ言葉に、サクラは小さく息を零しながら返した。
「わからなくってもいいんじゃない? 私、ルリと婚約した時、ルリのことは良い友人だと思ってたわ」
「えっ……?」
「ローズ母様から結婚を求められて、誰か知らない人と結婚するぐらいなら……って思って。それで、交際相手として、ただの友人だったルリを紹介したの。そんな始まりだったけど、私、今……すごく幸せよ」
温かい湯気に溶けた主の言葉に、嘘偽りがないことは明白だった。
チェリーの脳裏に鮮やかに思い浮かんだのは、まだ記憶に新しい、二人の結婚式の光景だ。
仲睦まじく寄り添う二人の姿は、お互いがお互いを特別に想っている様子がひしひしと伝わってきて、その場では自然と頬が緩んだものだ。――けれど今は、その眩しさが少しだけ羨ましく、遠く思えてしまう。
「そう、だったのですね……。とても仲がよろしいように見えたので……私、お二人はそういう仲だということを、疑ったこともありませんでした」
「ふふ、ルリは元々人懐っこいからそう見えたのかしら。でも、どう? 始まりなんて、どうだっていいんじゃない?」
「それは……」
そう問われて、チェリーは言葉を詰まらせた。
サクラとルリは、その歪な始まりすらも愛に変えて幸せになったのだろう。
でも、自分も同じように、あのキウイのずしりと胸に響く想いに応え、良い関係を築けるのか――その確証だけが、どうしても持てなかった。
「じゃあ、こんなことを想像してみたらどうかしら。あなたの望み通り、キウイとは恋人にならず、それでもルリのメイドを続けてくれたとしましょう。けれど、夜になれば……あなたに今日向けられた熱い視線は、別の娘に向けられるの」
「…………っ」
チェリーの、髪を洗う手がぴたりと止まる。
想像が、遮る間もなく頭の中で不吉な輪郭を結んでいく。
キウイが、自分以外の誰かに寄り添い、あの底の見えないほど深くて熱い瞳で、自分ではない別の娘を見つめている姿。
(――嫌、です……?)
胸の奥から沸々とせり上がってくる強い拒絶感に、チェリー自身が一番激しく動揺した。
キウイをそういう目で見たことはない。恋というものが何なのかも、さっぱりわからない。
それなのに、あの熱を他の誰かに奪われるかもしれないと考えただけで、胸の奥が不快にざわついて、いてもたってもいられない気持ちになる。
自分の中に潜んでいた独占欲を自覚した瞬間、全身がカッと熱くなるような衝撃が走った。
「……それが答えなんじゃないかしら?」
サクラのすべてを見通したかのような穏やかな声に、チェリーは慌てて我に返る。
止まっていた指先を強引に動かし、サクラの髪を洗う作業を再開しながら、ぽつりと零した。
「私、キウイさんを、好き……なの、でしょうか」
「チェリーがそう感じるなら、そうなんじゃない?」
「でも、私の、好き……は、キウイさんみたいに、熱くて、重いものじゃ、ないんです。こんなの、恋心と呼んでいいのかも、わからないぐらい……」
手桶ですくい上げたお湯で、優しくサクラの髪を流す。
ざぱあ、と、白い泡が容赦なくお湯に溶けて流されていく。
自分の中にあるこの微かな気持ちは、目の前の泡みたいに、ひとたび波に揉まれたらあっけなく消えてしまうような儚いもののように思えた。
実体のない不安が、立ち上る湯気とともにチェリーの胸をいっぱいに満たしている。
「私、きっと……キウイさんから、たくさん気持ちをもらっても、同じだけ返せないと思うんです。こんな私が、キウイさんを束縛する資格なんて……ありません」
お湯がたゆたう微かな音に重ねるようにサクラが返したのは、チェリーの頑固さを解きほぐすような明るい声だった。
「あら、そんなこと気にしてるの?」
「そんなこと、なんて……」
「だって、キウイはきっと、見返りなんて気にしないわよ。キウイがあげたいって言うのなら、気にせずにもらってあげなさいな」
その、サクラの言葉を聞いた瞬間。
胸の中にどんよりと溜まっていたものが、じんわりと温かい空気に溶けて、ふっと抜けていくような気がした。
「そんな……簡単で、いいのでしょうか」
「チェリーは難しく考えすぎよ。もっと、自分に正直になったら?」
「正直に……。そう、ですね……」
自分に、正直に。
キウイに、ずっと隣にいてほしい。
どこにも行かないでほしい。
どれだけ自分勝手で不完全な気持ちに思えても、それを願うことは、絶対に許されない我儘ではないのかもしれない。
「私、キウイさんに……お話してみます。自分の気持ち」
「ええ、そうしなさい」
主の優しい言葉が、背中をそっと押してくれる。
チェリーは胸のうちで決意を確かめながら、深く息を吐き出した。
◇ ◇
サクラの湯浴みを終えて二人が部屋に戻ると、ちょうどルリの寝支度が整えられたところだった。
「キウイさん、あの……」
「ルリ様の寝支度は完了いたしました。私はこれで、お先に失礼いたします」
キウイはチェリーの言葉を遮るようにそう告げると、流れるような動作で部屋の扉へと歩き出す。
ちらりと覗いたその瞳は、昼間のあの熱が嘘だったかのように、相変わらず冷たい色を帯びていた。
「あ……っ、待ってください、キウイさんっ!」
チェリーの切羽詰まった声が部屋に響いた瞬間、キウイの肩が、ほんの一瞬だけ微かにぴくりと強張った。
しかし、最初から何も聞こえていなかったかのように歩みを再開し、扉の前で深々と丁寧な一礼をした。
「ルリ様、サクラ様。……今までお世話になりました。おやすみなさいませ」
――お世話になりました。
その、夜の挨拶にはあまりにも不釣り合いな訣別の響きに、チェリーの心臓がどくんと重く跳ね上がる。
重々しい無慈悲な音とともに、扉は閉ざされた。
引き止めたい、追いかけたい。
そう激しく脳裏で警鐘が鳴り響くのに、チェリーの足は床に縫い付けられたように動かなかった。
まだ、主の寝支度が終わっていない。サクラはバスローブ姿のままで、タオルに包まれた髪は濡れたままだ。
自分の役目を放り出して私情に走るなど、長年染み付いたメイドとしての本能が、どうしても許さなかった。
焦燥感で目の前が暗くなりかけた、その時。
ふわりとした甘い石鹸の香りがチェリーを包み込み、背中に柔らかな手のひらがそっと添えられた。
「チェリー、キウイを追いかけなさい」
「でも、サクラ様の寝支度が、まだ……」
「そんなのどうとでもなるんだから、心配しないの。ほら、早く」
サクラの優しさに満ちた声が、チェリーの足を縛り付けていた見えない鎖を粉々に打ち砕いた。
主がくれたその絶対的な許可を抱きしめて、チェリーは視界に溜まった涙を振り払うように力強く頷いた。
「……っ、はい! ありがとうございます!」
まだ、間に合う。あの冷たい緑の瞳が、完全に自分の前から消えてしまう前に。
チェリーはキウイの残した冷ややかな気配を追いかけるようにして、部屋の扉を勢いよく押し開いた。




