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欲しいものの話、あるいは声が上ずること

花野原の道が、しばらく行くと少し下りになった。


下りといっても急ではなく、気づいたら低いところにいた、という種類の下りだった。草の丈が少し高くなって、風が弱くなって、気温が少しだけ上がった。


「近い?」英理はそのものの背中に聞いた。


「近い」


「どのくらい」


「もうすぐ」


「もうすぐというのは、一般にどのくらいですか」


「一般は関係ない」


英理はその答えをひとまず受け取って、歩き続けた。カエルが後ろで枝を踏んで音を立てた。部瑠太師は音を立てなかった。老人が歩くと草が避けるような気がした。気のせいかもしれなかった。


扉があった。


野原の中に、唐突に。


枠だけがあった。建物がない。壁もない。ただ石の枠だけが立っていて、その中に扉がはまっていた。木の扉で、古く、表面に文字のようなものが彫ってある。読めない文字だった。でも触ると、また、指先に何かが伝わってくる気がした。熱さでも冷たさでもない、もっと別の。


「開けるのか」カエルが言った。


「開けてみなければわからない」英理は言った。


「また同じことを言う」


「同じ状況なので」


カエルは何か言いかけて、やめた。


英理は扉に手をかけた。さっきの扉より軽かった。するりと開いた。


中は、部屋だった。


小さな部屋だった。


石の壁。石の床。天井は低く、蝋燭が三本だけ燃えていた。海門の大社ほどの広さも荘厳さもない。ただ、四方の壁が本棚になっていた。


床から天井まで。


本が、並んでいた。


大きいもの、小さいもの、厚いもの、薄いもの。背表紙に文字があるものも、何も書かれていないものも。古いものも、新しいものも。どう分類されているのかわからなかった。でも整然としていた。乱雑ではなく、ただ、人間の分類方法とは別の順序で並んでいた。


英理はしばらく入口に立って、部屋を見回した。


腹が減っているのを、忘れた。


そのものが棚の前を歩いた。一度止まった。また歩いた。また止まった。棚を見上げて、少し首を傾けて、また歩いた。何かを探しているようでも、ただ確かめているようでも見えた。


それから一冊を抜いた。


大きくなかった。薄くもなかった。普通の本だった。革の表紙で、飾りはなく、背表紙にも何も書かれていなかった。古い。でも傷んでいない。


そのものが英理を振り返った。


「これでしょ?」


差し出してきた。


英理は本を見た。何も書かれていない表紙を見た。


見た瞬間に、わかった。


わかった、というのが正しいかどうかわからなかったが、何かが胸の中で動いた。鐘が鳴ったわけではなく、光が走ったわけでもなく、ただ、動いた。


英理は手を伸ばしていた。考えてから伸ばしたのか、先に手が動いたのか、後から考えても判断できなかった。


本が、手の中にあった。


重くなかった。温かくもなく、冷たくもなかった。ただの本の感触だった。でも持った瞬間に——


これだ。


という感覚があった。


名前のない問いに名前がついた瞬間のような。答えではなく、問いそのものが形になった感覚だった。今まで一晩中考えても届かなかったものたちが、全部、この中にある。


「え」と英理は言った。


それから一拍遅れて、「……ええ」と言った。


自分の声が少し高いことに、言ってから気づいた。


「隠してるつもり?」


そのものが言った。怒ってはいなかった。少し、意外そうだった。


「隠していません」英理は言った。「ただ」


「ただ?」


「……声が上ずっていましたか」


「上ずってた」


英理は本を見た。表紙を見た。何も書かれていない革の表紙を、もう一度見た。


落ち着こうとした。落ち着けなかった。こういうことは、あまりなかった。


「あの」


「なに」


「少し待ってください」


「いいよ」


英理はしばらく本を持ったまま立っていた。カエルが部屋の壁際で腕を組んでいた。部瑠太師は棚の前に行って、背表紙を眺めていた。


英理はもう一度、本を見た。


「中を、見ていいですか」


「見ていい。でもその前に話がある」


「順番が逆ですか」


「逆の方がいい」


英理は本を持ったまま、そのものを見た。


「全部、入ってる」とそのものは言った。


「何が、ですか」


「答えが。お前が今まで聞いた問いも、これから聞く問いも。知りたかったけど誰にも聞けなかったものも。経典を三冊読んでも出てこなかったものも」


英理は本を持つ手に、少し力が入った。


「本当に」


「本当に」


「……蜜檸檬がおやつに含まれるかどうかも」


「入ってる」そのものは少し間を置いた。「それが一番聞きたいやつ?」


「一番ではないです。でも最初に思いついたので」


「そっか」とそのものは言った。少し楽しそうだった。


英理は本を持ったまま、もう少し落ち着こうとした。落ち着いてきた。落ち着いてきたところで、気づいた。


話がある、と言っていた。


「続きを聞きます」と英理は言った。


そのものが、床に腰を下ろした。英理も本を持ったまま、向かいに座った。


「全部の答えを持つ」とそのものは言った。「それはそのまま。嘘じゃない」


「はい」


「ただし」


来た、と英理は思った。


「問いは消えない」


英理は一度、その言葉を頭の中に置いた。


問いは消えない。全部の答えを持っても、問いは消えない。


「どういう意味ですか」と英理は聞いた。説明を求めたのではなく、自分の理解を確かめるために聞いた。


「答えを知ったら、次の問いが生まれる。それが止まらない」


「今もそうですが」


「今より速くなる。止まらなくなる、かもしれない」


英理は本を見た。何も書かれていない表紙を見た。


腹が、鳴った。


部屋の静けさの中で、はっきりと。


「……すみません」


「気にしない」そのものは言った。「お腹が空いてる間は、止まれるね」


英理はその言葉を聞いて、少し動きが止まった。


止まれる。


「問いが消えないなら」英理はゆっくり言った。「止まれますね」


「え?」そのものが少し眉を上げた。


「問いがある間は、立ち止まって考えられる。答えを持っても問いが消えないなら——止まる理由がなくなるわけじゃない」


そのものは少し黙った。


「そういう受け取り方をするんだ」


「違いましたか」


「違うとも言えない」そのものは言った。「ただ、そう受け取った者は少ない」


カエルが、壁際から言った。「それ、持って帰るのか」


「まだ決めていないですが」


「そうか」


それだけだった。でもカエルの声は、少し低かった。


英理は本を持ちなおした。


「答えを出すのは、今じゃなくていい?」


「今じゃなくていい」


「わかりました」英理は言った。「少し考えます」


「考えていい」


「ただ」英理は本を見ながら言った。「中を見てから考えてもいいですか。見てしまったら答えが変わるかもしれないですが」


「変わったとしても、それがお前の答えだよ」


英理は表紙に触れた。開けなかった。まだ開けなかった。でも持ったままにした。


カエルが、動いた気配がした。英理は顔を上げた。カエルは壁際で、腕を組んだまま立っていた。でも視線が英理の方を向いていた。英理を見ているのか、英理が持っている本を見ているのか、あるいは全体を見ているのか。でも見ていた。それだけはわかった。


英理は視線を本に戻した。部瑠太師は棚の前に立ったまま、背表紙をひとつひとつ指でなぞっていた。老人の指が、静かに棚の上を動いていた。


「急がなくていい」とそのものが言った。


「はい」


「ここはしばらく、ある」


「どのくらい」


「わからない。ただ、消えるときは消える」


「それまでに決めればいいということですか」


「そう」


英理は部屋を一度見回した。本棚。蝋燭の炎。石の床。小さな部屋。外の花野原の方が、広かった。でもここの方が、密度が高かった。


「一つ聞いていいですか」


「どうぞ」


「師も、昔ここへ来ましたか」


そのものは少し間を置いた。「来た者もいる」と言った。答えではなかった。でも答えになっていた。


英理は部瑠太師の背中を見た。老人は振り返らなかった。指が、棚の上を動いていた。


本を持ったまま、英理は少し俯いた。


欲しい、と思っていた。今まで気づかなかったくらい強く、欲しいと思っていた。それが少し、意外だった。自分がこんなに何かを欲しがれるということが。蜜檸檬を誰かに渡しても惜しくなかった。板を使い切っても残念と思わなかった。銭袋を忘れても大丈夫と思った。でも今、この本を手から離すことを想像したとき、何かが抵抗した。小さく、でも確かに。


「……変ですね」英理はひとりごとのように言った。


「何が」とそのものが聞いた。


「私がこんなに何かを欲しがっているのが」


そのものは何も言わなかった。


「欲しがってはいけないわけじゃないんですが」英理は続けた。「ただ、自分がこういう顔をするとは思っていませんでした」


「どんな顔してるかわかるの?」


「声が上ずったので、たぶん顔にも出ていると思って」


そのものは少し黙った。それから「かわいいね」と言った。


英理はしばらく考えた。「……褒めてますか、今」


「褒めてる」


「そうですか」


「そうだよ」


「わかりました」と英理は言った。


帰りの道で、英理は本を荷物の中に入れた。そのものが「それ、持って出ていいよ」と言ったので、持って出た。答えを出す前でもそれはいいらしかった。


「答えを出す前に開いたら、どうなりますか」と英理は聞いた。


「試してみれば」とそのものは言った。


「試した人はいますか」


「いる」


「どうなりましたか」


そのものは歩きながら空を見た。花野原の空だった。青くて、雲がなかった。


「続きは、また今度」


「今度があるんですか」


「さあ」


英理はその答えをひとまず受け取った。荷物の中の本が、少しだけ重く感じた。重いというより、あった。確かにそこにあった。


花が揺れていた。金属の音が、また聞こえた。今日は遠かった。でも消えていなかった。どこかで、静かに、続いていた。まるで何かを、数えているように。



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