ep8. 管理者
第八話、お楽しみください。
校舎が軋んでいた。
巨大な“それ”が外壁に触れるたび、コンクリートが悲鳴みたいな音を立てる。
胸に埋まった無数の顔たちは、まだこちらを見ていた。
『神代湊』
『神代湊』
『識別完了』
重なり合う声。
男。
女。
子供。
老人。
何十人もの声が一つになって響いてくる。
耳じゃない。
脳の内側へ直接流し込まれているみたいだった。
「――逃げるよ!」
雨音が俺の手を引く。
ようやく体が動いた。
俺たちは廊下を駆け出す。
背後では、窓の外に張り付くように巨大な“管理者”がこちらを覗き込んでいた。
顔のない黒い穴。
なのに、確実に視線を感じる。
気持ち悪い。
見られているだけで、自分の輪郭が曖昧になる。
まるで、
“存在を読み取られている”。
「はぁっ……はぁっ……!」
階段を駆け上がる。
だが校舎の様子がおかしかった。
さっきまでと構造が違う。
「……は?」
二階に上がったはずなのに。
廊下の窓から見える景色は、なぜか“校庭”だった。
しかも、同じ校庭が延々と続いている。
コピーみたいに。
「なんだよ、これ……!」
「空間がズレてる」
雨音は走りながら答えた。
「管理者が近づくと、“向こう側”との境界が壊れるの」
「意味わかんねぇよ……!」
「わたしだって全部わかってるわけじゃない!」
珍しく、彼女が声を荒げた。
その顔には焦りが浮かんでいる。
初めてだった。
いつも冷静だった雨音が、ここまで取り乱しているのは。
その時。
廊下の先に、人影が現れた。
女子生徒だ。
制服姿。
俯いていて顔が見えない。
だが、その肩が小刻みに震えていた。
「……おい」
俺が声をかけると、女子生徒はゆっくり顔を上げた。
知らない顔。
だが、その目には涙が溜まっていた。
「助けて……」
掠れた声。
「わたし、思い出しちゃったの……」
その瞬間。
女子生徒の首が、ぐにゃりと横に曲がった。
「っ!?」
ありえない角度。
骨が折れる音が響く。
だが彼女は死んでいない。
口元だけが笑っていた。
「わたし、本当は“わたしじゃない”のに」
次の瞬間。
彼女の顔が、崩れた。
粘土みたいに。
目が落ちる。
口が裂ける。
皮膚が溶ける。
その下から、“別の顔”が現れた。
男。
女。
子供。
何人もの顔が、彼女の内側で蠢いている。
「う、あ……」
吐き気が込み上げる。
雨音が俺を庇うように前へ出た。
「もう侵食されてる……!」
女子生徒だった“何か”は、涙を流しながら笑った。
「わからないの」
「どれが本当のわたしか……」
その声は、途中から別人のものに変わっていた。
低い男の声。
幼い子供の声。
知らない老人の声。
人格が混ざっている。
境界が壊れている。
それを見た瞬間、俺の頭にも激痛が走った。
知らない記憶が流れ込む。
運動会。
誕生日。
泣いている母親。
全部、“俺じゃない誰か”の記憶だ。
「ぐっ……!」
「神代くん!」
視界が滲む。
すると。
廊下の奥から、重い足音が響いた。
ズン。
ズン。
ズン。
空気が震える。
校舎全体が軋む。
管理者だ。
近づいてきている。
女子生徒だったものが、恐怖に顔を歪めた。
「やだ……」
「やだやだやだやだ……!」
その瞬間。
天井を突き破って、“腕”が降ってきた。
巨大な黒い腕。
関節の数がおかしい。
人間の腕を無理やり引き伸ばしたみたいな形。
それが女子生徒を掴む。
「いやぁぁぁぁぁぁっ!!」
絶叫。
だが次の瞬間。
彼女の声は、ぷつりと消えた。
巨大な腕の中で、彼女の身体が砂みたいに崩れていく。
さらさらと。
存在そのものが削られていく。
最後に残った顔だけが、俺を見た。
「……忘れないで」
そして、消えた。
完全に。
まるで最初から存在しなかったみたいに。
廊下に沈黙が落ちる。
俺は動けなかった。
呼吸すらできない。
今のは、死んだんじゃない。
違う。
“消された”。
雨音が震える声で呟く。
「……回収された」
「回収……?」
「管理者は、“不安定な人格”を向こう側へ戻すの」
俺はゆっくり、巨大な腕が消えた天井を見上げた。
その暗闇の奥で。
何か巨大なものが、こちらを覗いていた。
次回第九話、随時更新




