「正しいことで、今日も勝った」
今日の夜営地には、風が吹いていなかった。
世界の終端に近い場所は、こんなにも静かだった。石と土だけの広場に小さな火があって、その周りに全員がいる。アルスが火の傍で腕立てをしていた。習慣なので仕方ない。グラがベータの肩で眠っていた。ネネが目を閉じ、壁に背をもたせかけて腕を組んでいた。
田中だけが、まだ起きていた。
火の明かりで、帳面をつけていた。今日の収支を、明日の経路を、消耗品の残量を。書いて、確認して、また書く。いつも通りの作業だった。
エリュシアは少し離れたところに立って、その横顔を見ていた。
*
田中と出会ってから、数え切れないほどその横顔を見てきた。
見ていたのはこの場だけではない。46年分、書類として処理してきた記録の中にも、同じ横顔があった。
夜中まで工場に残って、一人でラインを直した22歳の記録。
上申書を23枚書いて、全部却下された35歳の記録。
先輩が死んだ翌朝、誰にも何も言わずに出勤した31歳の記録。
全部、処理してきた。書類として。数値として。
(あの記録の中の人が、今ここにいる)
炎が揺れた。田中の横顔が、少し動いた。
帳面を閉じた。
誰にも向けずに、小さく言った。
「......正しいことで、今日も勝ったな」
それだけだった。
誰かに向けた言葉ではなかった。誰かに聞かせようとした言葉でもなかった。ただ、記録するように言った。それだけだった。
エリュシアだけが、その言葉を聞いた。
*
(正しいことで、今日も勝ったな、と言いました)
夜の空気の中で、その言葉が静かに広がった。
(田中さんは、23年間)
(正しいことをするたびに負けていました)
(書類で知っています)
(全部、私が処理しました)
声には出さない。出すことではない。
(今日は、勝ちました)
(この世界では、正しいことをして、彼は勝ちました)
炎が小さく揺れた。田中は帳面を膝の上に置いたまま、空を見ていた。
(この世界を選んだのは、私でした)
それは一度、正式に言語化しなければいけない言葉だった。
(無自覚な贖罪でした)
(気づいていませんでした)
(田中さんが一度くらい正しいことで勝てる世界を選びたかった)
(それだけのことが、46年分の書類管理から漏れ出ていた)
田中がまだ空を見ていた。表情は読めない。いつも読めない。
(田中さんが削り切りました)
(私が選んだ世界で)
(田中さんが削り切りました)
少しの間があった。
(本当に......よかった)
声には出さない。
(ごめんなさい、とも)
この言葉は特に、出せない。
(田中さんに届けられる言葉ではありません)
(届けたところで、田中さんは「常識だろうが」と言って前を向きます)
(そういう方です)
(知っています)
エリュシアが小さく息を吸った。
(どちらも声には出しません)
(声に出すことで変わることは、何もありません)
田中が空から目を落として、また帳面を開いた。何かを書き足している。
(行動だけが変わります)
それだけだった。それだけで、十分だった。
エリュシアが田中を見た。炎に照らされた横顔を、46年分の記録の最後に、一枚だけ加えた。
「行動だけが変わります」という言葉は、声に出さないまま、確かに決まっていた。
*
壁に背をもたせかけていたネネは、目を開けていなかった。
その後も、目を開けなかった。
聞こえていたが、何も言わなかった。
(......そういうことだったか)
ネネは目を閉じたまま、少しだけ深く息を吸った。
(田中がこの世界を選んだわけではない)
(この世界で、正しいことで勝ちたかった人間がいた)
(......我も、同じだったかもしれない)
それ以上は考えなかった。考えることではなかった。
目を閉じたまま、眠るふりを続けた。
グラが「グゥ」と一声鳴いて、また眠った。
炎が揺れた。
*
「行くぞ」
夜明けに、田中が言った。
いつも通りの声だった。
「......はい」
エリュシアが答えた。
いつも通りの声だったが、少しだけ違う「はい」だった。それが違うことを知っているのは、エリュシアだけだった。
全員が立ち上がった。荷物を持った。グラが田中の肩に乗った。
田中が前を向いて歩き出した。
世界の終端まで、もう少しだった。
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※その頃、神界では——
「......田中が、なにか言ったみたいですよ」とカーヴェが言った。
「聞こえましたか」
「エリュシアだけに聞こえたみたいです」
ウルダが少しの間を置いた。「……エリュシアは」
「何も言いませんでした」
「そうですか」
「行動だけが変わる、というやつかもしれません」
「寛大に」とウルダが言った。「見守ります」
「寛大です」
「......悪くないな」
カーヴェ「珍しくちゃんと見ていましたね」
ウルダ「SEGAですから」
カーヴェ「それ関係ないですよ」
神界業務日報 第95回
今日は書けません。
以上です。
担当:エリュシア(神界第七課・業務継続中)
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魔王の家計簿 第95回
支出:なし
田中が「正しいことで、今日も勝ったな」と言った。
誰にも向けずに言った。
我は聞こえなかったことにした。
聞こえなかったことにしたが、書いた。
書かなくていいことだが、書いた。
エリュシアが聞いていた。
何も言わなかった。
でもなんか、顔が違った。
明日がある。
以上。
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ベータの観測記録 第三回
本日の観測:
観測できなかった場面があった。
夜、田中が何かを言った。
エリュシアが聞いていた。
ネネも聞いていたと思う。
計測値:取れなかった。
理由:わからない。
初めて記録できなかった場面があった。
それだけ書く。
記録する。




