「娘を頼む(流された)」
魔界の朝は、普通の世界とは空の色が違う。
暗いわけではない。ただ、光の方向が少しずれている——ような気がする。赤とも橙とも言えない、独特の雰囲気を出している。
田中は居城の中庭に出て、朝の一服で煙草に火をつけた。出発の準備はすでに終わっている。荷物は最初からまとまっていた。魔界に来てから三日。無駄のない滞在だったと思う。
アルスは、庭の隅で腕立てをしていた。魔界に来ても習慣は変わらない。シャツは今のところ無事だ。フィルナが欠伸をしながら荷物を背負い、グレインがその横で腕を組んでいる。リリはどこかから椅子を持ってきて、脚を大胆に広げたギャル座りのままメモか、帳簿らしきものをじっと眺めていた。
エリュシアは田中の斜め後ろに立って、昨夜のことを引き続き考えていた。
(昨夜、ハガー様が「娘を頼む」と言いました)
(田中さんは流しました)
(ハガー様は酔っていました)
(私も少し赤かったと思います)
(処理中)
ネネは中庭の端に立ち、魔界の空を見上げていた。
(昨夜は酔っていたから――)(あれは万年の銘酒の戯れ)(今日は我は、何も言わないぞ)(......それでいい、はずだ)
居城の大扉が、重い音を立てて開いた。
ハガーが出てきた。万年大魔王。でかい。とにかく巨大な体躯と傷だらけの外見は、見送りの朝でも覇気が損なわれていない。昨夜の酒が完全に抜け、目が醒めている。
「田中」
「なんだ」
「娘を頼む――」
******
三秒、沈黙が場を包んだ。
「田中は煙草を一口吸ってから言った。「昨夜も言っただろうが」
「あれは酔っていた」
「......じゃあ今は」
「シラフだ」
「違う」と田中は言った。「そういう関係じゃない。昨夜も言っただろうが」
「言った」
「わかったのか」
「わかっていない」
「......」
「娘を頼む」
「だから違うと言っている」
「言っておくものだ」
「話が噛み合っていないぞ」
「噛み合っている。以上だ」
田中が煙草を指の間で止めた。「......まあ」
そこで言葉が止まった。
ハガーが視線を動かした。田中から、ネネへ。でかい体躯がゆっくりと向き直り、万年大魔王が娘の前に立った。
「......わが愛しき娘よ」
声が変わった。さっきまでの「以上だ」口調ではない。荘厳で、重く、一万年の重みがある。
「魔王ネネよ」
ネネ「父上......?」
「何も言うな」
ハガーが片手を上げた。拒絶でも制止でもなく——『すべてを知っている者』の仕草で。
「すべてわかっておるわ」
*
「わかっておらん」と田中が言った。
誰も聞いていなかった。
(千年生きた)(今日いちばんの一言が届かなかった)(田中ですら届かなかった)
「パパ——!!あっ」
声が、出た。出てしまった。
ネネが固まった。全員の視線が集まった。
「ち......ちち——父上!!違う!!そういうことでは——!!」
ハガーは振り返らなかった。ただ、でかい背中の肩のあたりが——ほんの少しだけ、上がっていた。
「すべてわかっておるわ」
「父上、わかっておらん!!」
(今、父上と同じ口調になった)(気づいた)(余計に恥ずかしい)
リリが椅子から立ち上がりながら言った。「今、パパって言いかけたじゃん〜」
「言っておらぬ!!」
フィルナ「パパ、かわいいね〜」
「かわいくない!!」
「(今日は何も見ていない)(聞かなかったことにする)(以上)」グレインは目を両手でふさぎながらそう考えた。
エリュシアは田中の後ろで静止していた。
(ネネ様が今パパと言いかけました)
(ハガー様が「すべてわかっておるわ」と言いました)
(処理中)
(処理中)
(処理中)
(む、む、む娘を頼むってもうそれ、アレじゃないですか、アレしかないじゃないですかぁ!?)
(ネネ様は一体どういう気持ちなの――)
(絶対に......書けません)
アルス「師匠!!ネネ様が——!!」
田中「うるさい」 デコピン。
アルス「いてっ。すいません師匠!!(腕立てに戻る)」
*******
パパ騒ぎが一通り落ち着いてから、ハガーが田中の前に立った。周囲が自然と引いた。でかい背中と、新しい煙草に火をつけた田中の沈黙が向き合っている。
「......お前みたいな奴が娘の隣にいるとは思わなかった」
荘厳な口調ではなかった。小さい声だった。
「悪くない」
田中がポケットから煙草を一本取り出した。
「ハガー」
「なんだ」
「子供はいつか遠くへ行く。それだけだ」
差し出した。ハガーが受け取り、黙って頷いた。どちらも、それ以上は言わなかった。言葉は、もう要らなかった。
田中が踵を返しかけた時、肩のグラが一声鳴いた。
「うるさい」
ハガーが振り返った。手乗りサイズの青緑の翼竜が、でかい大魔王をまっすぐに見ている。
「......悪くない」
******
「もう行くぞ」
田中が歩き出した。
リリが素早く立ち上がって田中の前に回り込んだ。「精算するよ~」
「わかってる」
金が動いた。きっちりした金額で、どちらも淡々としている。一言も要らなかった。
リリ「ネネ〜また遊ぼうね〜。パパって言いかけたの、かわいかったよ〜」
ネネ「だーかーら、言っていない」
リリ「はいはい〜」
フィルナ「リリちゃんまたね〜!!」
リリ「フィルナはいつでも来ていいよ!!」
グレイン「なるほどね......(なんか、ネネ様とフィルナで態度が違うな)」
リリが手を振りながら、田中たちとは別の方向へ歩いていった。
アルスが庭の隅から走ってきた。「師匠!!出発ですか!!」
田中「ああ」
アルス「はい師匠!!」
走ってきたアルスは筋肉の膨張でまたシャツが破れた。
田中「......削れ、シャツ代」
エリュシア「(ドS出る)削れ!!(追い打ち)」
田中(無視)
(無視されました)(よかったです)(合唱でしたが)(どちらでもよかったです)
ネネが居城を一度だけ振り返った。ハガーは大扉の前に立ったまま、こちらを優しそうな目で見ていた。それは父が愛する娘に向けたまなざしだった。
(父上)
何も言わなかった。ただ、少しだけ頷いた。
「......行くか」
千年魔王の口角が、ほんの少し上がっていた。グラが田中の肩に乗って、首元に落ち着く。
田中が魔界の出口に向かって歩き出した。空の光の方向は、相変わらずずれていた。でも田中は確認しなかった。前を向いていたから。
******
その頃、神界では——
ウルダのモニターに「大魔王:見送り完了」の通知が届いた。
「......田中が出たか」
カーヴェ「娘を頼む、と言ったみたいですよ。二回。昨夜は酔ってて、今朝はシラフで」
ウルダ「魔王と勇者が......ぷぷぷ、田中は」
カーヴェ「二回とも否定しました。二回とも流されました。『すべてわかっておるわ』で押しつぶされたみたいです」
ウルダが少し間を置いた。「それは......SEGAでも分析できませんね」
カーヴェ「全面的に同意します」
※おじさん解説!
『ファイナルファイト』(1989年・カプコン)の主人公の一人、マイク・ハガー市長。娘が誘拐されたと知った翌日、市長業を放り出してスラム街に単身乗り込む。政治家なのに素手のプロレス技で制圧する。昭和的な父親の権化だ。
田中の命名基準は「娘のために単身乗り込む」「素手で戦う」「父親」の三点だ。シラフで「娘を頼む」と言いに来て「すべてわかっておるわ」で全員を押しつぶすあたりも、完全に一致している。
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神界業務日報 第91回
本日の特記事項。
ハガー様がシラフで「娘を頼む」を言いました。昨夜に続き二回目です。
昨夜:酔っていました。
本日:シラフでした。
田中さんが「違う、そういう関係じゃない」と二回否定しました。
ハガー様が「すべてわかっておるわ」と言いました。
田中さんの否定が届きませんでした。
私の処理も届きませんでした。
処理区分:未分類。
田中さんが煙草を一本渡しました。何も言いませんでしたが、全部入っていたと思います。田中さんはそういう方です。知っていました。
グラさんが「うるさい」と言いました。ハガー様が「悪くない」と言いました。私も悪くないと思いました。書いてしまいました。消しません。
以上です。
担当:エリュシア(神界第七課・業務継続中)
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魔王の家計簿 第91回
支出:煙草一本(田中→ハガー)
父上がシラフですごいことを言いに来た。
昨夜は酔っていたから酒のせいにできると思っていた。
シラフで言われた。酒のせいにできなかった。
「すべてわかっておるわ」と言われた。
わかっておらん、と言い返した。
田中も言っていた。
誰も聞いていなかった。
パパ、と言いかけた。言い直した。聞かれた。全員に。
父上は振り返らなかった。肩が少し上がっていた。
知っている。あれは笑っている時の顔だ。
書かないと決めた。
――が、やっぱり書いた。
以上。
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大魔王の独り言 第三回・最終回
昨夜は酔っていた。
だから今日、シラフで言いに行った。
娘を頼む。
田中は流した。煙草を一本くれた。昭和?とかいうものの味がした。
翼竜が「うるさい」と言った。悪くなかった。
「パパ」と聞こえた。
笑ってしまったので、振り返らなかった。
すべてわかっておる。
悪くない男が、娘の隣にいる。
それは人間だ。
以上だ。




