「無駄、だ(戻ってきた)」
それは、一党が市場を歩いている際、宝飾屋の前で起こった。
田中が棚の奥に置かれた指輪を見ていた。金と宝石で作られた指輪だった。値札がついていた。金額は五十万Gだった。今の田中なら即購入していたであろうものだ。
「これだ――」と田中が言いかけた。
手が、止まった。
(……これは)
静かだった。草原でも城でもない。道端の宝飾屋の前だった。誰かが待っているわけでも、何かが迫っているわけでもなかった。ただ田中の手が、止まっていた。
(これは、無駄、だ)
「……やめだ」
声に出た。
田中が手を下ろした。振り返った。「行くぞ」
エリュシアが「(戻ってきました)(田中さんが)(……少し惜しかった気がします)(書けません)」と内心だけで言った。
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「……削れ」
田中が歩きながら言った。久しぶりのセリフだった。
「削れ!!(即発動)」
エリュシアが言った。二人同時だった。
二人が止まった。
「……俺の台詞だろうが」と田中が言った。
「私の台詞でもあります!!(ドS)」とエリュシアが言った。
(でも合っています)(今日は合っています)(複雑です)
「ようやく戻ったか」とネネが言った。
「うるさい」と田中が言った。
「うるさい(ドS)」とエリュシアが言った。
ネネが「……また二人で言った」と言った。
間髪いれず、田中がエリュシアの額にデコピンを入れた。
「いたっ」
「うるさいお前は」
「(いたかった)(……なぜかよかった気がします)(書けません)」
アルスが「師匠が女神様を!!」と言った。グラが「グゥ(うるさい)」と返した。アルスも黙った。
ネネが「(……我も)(いや違う)(これはダメだ)(魔王だぞ我は)」と内心だけで言った。
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しばらく歩いたところで、エリュシアが立ち止まった。
「ところで……なんで私だけ戻らないんですか!!」
「知らん。お前の意思が弱いんだろ」と田中が言った。
「知らんじゃありません!!術式は解除されたはずです!!『削れ』が止まりません!!なぜですか!!」
「お前だけ何か残ったんだろう」とネネが言った。
「何が残ったんですか!!えっ何が――」
「……(知っている)(言わない)」
「ネネ様なら知っているはずです!!教えてください!!」
「言わない、というか言えない......」
「なぜですか!!」
「知らない方がいいからだ」
エリュシアが「(何が残ったんですか)(でも)(声に出せています)(田中さんに怒れています)(……なぜかよかった気がします)(書けません)」と内心で思った。
「怒っているのに顔が笑っているぞ」とネネが静かに言った。
「笑っていません!!(ドS)」
田中がチョップを入れた。
「いたっ……(内心:また叩かれました)(ああ、でもよかった気がします)(書けません)」
「バカ女神、うるさい」
アルスが黙っていた。グラが肩の上で「グゥ」と一声鳴いた。
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アルスが鍛錬を始めた。
何かの反動でシャツが破れた。
「師匠!!また破れました!!」
「シャツ代がかかる。削れ」と田中が言った。
「削れ!!(ドS即発動)」とエリュシアがまたも言った。
「二人に削れと言われました!!どちらが本物ですか!!」
「俺だ」
「私も本物です!!(ドS)」
田中「(無視)」
エリュシア「(無視されました)(……よかった気がします)(あっ、私のドMが出ちゃいました)(ドSとドMが今日から共存しています)(書けません)」
田中がとうとうゲンコツを入れた。
「いたぁい!!(ドS)(内心:三回目です)(今日だけで三回です)(もっと!って言いそうになっちゃいました)(ダメです、私は女神)(よかったです)(書けません)」
「うるさい」
ネネが腕を組んで静かに見ていた。「……(また叩かれている)(……我も)(いや待て)(魔王だぞ)(待て)(でも)(ダメだ)(記録しない)」
「ネネ様、どうかしましたか」とアルスが言った。
「何もない」
「顔が少し赤いです」
「何でもないと言っている!」
「はい師匠!!(なぜか師匠と言ってしまった)(破れたシャツのまま、筋トレを続けよう......)」
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夕方。宿を探していた。
田中の足が、迷わず安宿を向いた。三秒もかからなかった。
「ここだ」
「(ドS)正解です!!削れ!!」とエリュシアが言った。
「俺が決めた。以上だ」
「(ドS)以上です!!(止まる)(内心:また奪いました)(また出ました)(書けません)」
田中がデコピンを入れた。
「いたっ(ドS)(内心:四回目です)(今日は多かったです)(でもよかったです)(書けません)」
「うるさい」
「(ドS)うるさいのはそちらです!!」
「…………」と田中が言って、二回目のデコピンを入れた。
「いたっいたっ!!(ドS)(内心:五回目です)(書けません)」
ネネが「……我だけ、まともだったのに」と静かに言った。
「そうか」と田中が言った。
「誰にも信じてもらえなかった」
「常識だろうが」
ネネが「(それは謝罪ではない)(でも田中語でいう謝罪なのだろう)(……まあいいか)」と内心だけで言った。
エリュシアが「ネネ様、ご苦労様でした」と言った。ドSではない声だった。
「……まあ、我がいて助かっただろう」
「(ドS)よかったです!!(止まる)(内心:これはドSでなく本音でした)(書けません)」
田中がゲンコツを入れた。
「いたっ!!(ドS)(内心:六回目です)(今日最多です)(でもよかったです)(本音でした)(書けません)」
「うるさい」
ネネが「(……)(記録しない)」と内心だけで二回目を言った。
田中が宿に入っていった。エリュシアがついていった。
グラが「グゥ(うるさい)」と全員に向かって鳴いた。
アルスが「……今日は何かいろいろありましたね(師匠に)(女神様に)(ネネ様に)(グラに)」とだけ言った。
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その頃、神界では——
「本日、田中剛のデバフが解除されました。発話内容『やめだ』。宝飾屋前にて」
「……そうですか」
「エリュシアのデバフも連動解除。ただしドS成分が残留しています」
「……残留」
「はい。本日の『削れ』発話回数:エリュシア——集計中です。多いので」
ウルダが書類を置いた。「……寛大に」
「田中剛によるデコピン・チョップ・ゲンコツの合計:六回です」
ウルダの口元が動いた。動いて、止まった。「ぷ……見守ります」
「笑っていないことは記録しません」
「寛大に、処置します」
「寛大一回。記録しました」
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さらにその頃、魔界では——
「魔王様より報告です!!田中のデバフが解除されました!!『やめだ』の一言だったそうです!!」とゾルグが叫んだ。
「なるほどね」とグレインが言った。「つまり本音が出た瞬間に切れた」
「そうです!!すごくないですか!!」
「……なるほどね(これは素直にすごい)(認めてない)」
フィルナが「田中さんって、やめだって言っただけで戻れたんだね~」とおっとり言った。
「そうだ」とグレインが言った。
「やめだって言えるくらい、ちゃんと自分を持っていたんだね~」
グレインが「……なるほどね(正しい)(何もわかっていないのに正しい)」と言った。
「よかったねぇ」とフィルナが言った。
「よかったんですか!!」とゾルグが泣きながら言った。
「ネネちゃんも、ご苦労様だったね~」
全員が静かになった。
ゾルグが「……魔王様――」と小声で言った。泣いていた。
「(フィルナに言われた)(……まあ)(よかったのかもしれない)(記録しない)」とグレインが内心だけで言った。
ゼフィーラが書類から目を上げた。「フィルナ」
「え~なに~?」
「……今日はいい」
フィルナが「みんな、よかったねぇ」と言った。ゼフィーラが書類に戻った。
※おじさん解説!
ゲームで「コンティニュー」を押した瞬間のことを覚えていますか。ゲームオーバーの画面でカウントがゼロになる寸前に10円を入れる。または「はい」を押す。あの瞬間に全部戻ります。体力も、装備も、自分のゲームセンスも。
田中が「やめだ」と言った瞬間がそれだったと思います。コンティニューです。
ファミコンの『魔界村』(一九八六年・カプコン)というゲームがあります。死ぬと鎧が脱げて下着になります。それでも続けるかどうか問われます。田中なら続けます。下着でも続けます。無駄だとわかっていても続けます。それが田中剛という人間です。
なお「やめだ」という言葉は昭和のサラリーマン語で「中止」を意味します。会議で上司が「やめだやめだ」と言うと全員が止まります。田中がその言葉を五話ぶりに取り戻した意味は、田中本人が一番わかっていたと思います。
以上です。(おじさん調べ)
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※神界業務日報 第八十六回
本日、「削れ」と言うのをやめました。田中さんが言ったので。
……少しだけ惜しかったです。書いてしまいました。消しません。
ただし、まだ少し出てくることがあります。理由:不明。
叩かれました。六回。
よかったです。
ああ、とうとう書いてしまいました。消しません。以上です。
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※魔王の家計簿 第八十六回
五話分正気だった記録:全員に無視された。
正気であることを証明する方法が見つからなかった。
本日解決した。
でも誰も謝らなかった。
エリュシアだけ「ご苦労様でした」と言った。
……まあ、よかった。
あと我もエリみたいにもう少し田中に......いやこれは書けない。以上。
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※アルス修行日誌 第八十六回
師匠が戻りました。「削れ」と言いました。五話ぶりです。
女神様も「削れ」と言いました。同時でした。
叩かれていました。六回でした。女神様が嬉しそうでした。
ネネ様が少し赤い顔をしていました。気のせいかもしれません。
シャツが破れました。二人に削れと言われました。
どちらが本物かはわかりませんでした。
腹筋は続けています。以上です。




