「我だけが正気だ(信じてもらえない)」
朝から、魔王ネネは正しいことしか言っていなかった。
それなのに、誰にも届いていなかった。
宿の朝食の場――。
「今日の宿は安くていい施設だったな」とネネが言った。「田中、昨日の宿代はいくらだったかのう?」
「格調が足りなかった。もっと上等な宿にすべきだった」
「(帳面を見て)一泊おひとり様十五Gだった。十分な食事と設備であった」
「十五Gぽっちじゃ格調は買えない」
「田中よ。我の言葉を聞け――」
「格調ある宿は最低でも——」
「論外です!! 削れ!! 常識だろうが!!」
エリュシアが三回同時に言った。ネネが「そうだ、常識だ」と言った。
エリュシアがネネを見た。
「……今は私の台詞ですが」
「正しいから同意した」
「正しいのはわかっています!! でも私に言わせてください!!」
「どちらが言っても正しい」
「そういう問題では——」
「はぁ。......話を進めるぞ」とネネが言った。
誰も聞いていなかった。
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道中。田中が立派な馬具屋の前で足を止めた。
「馬具がいる。格調ある移動には——」
「そもそも馬がいないじゃろうが」とネネが言った。「馬具より先に馬だ。順番がおかしい」
「格調ある馬具を先に揃えてから格調ある馬を選ぶ。常識——」
「削れ!!順番通りにしてください!!常識だろうが!!」
エリュシアが言った。ネネが「うん、そうだ」と言った。
「ネネ様、同意しないでください」とエリュシアが言った。
「正しいから言っている」
「私が言いたいのです!!」
「どちらが言っても——」
「どちらが言っても正しいのはわかっています!! それはわかっています!!」
(なんかおかしいのもわかっています)(......それが、悔しいです)
田中が馬具屋の扉を開けた。ネネは「馬がいない」と言い、田中が「まずは馬具から揃える」と言った。
ネネが目を閉じた。
(……我だけがまともなことを三回言っている)(だが、届いていない)(今後の課題とする)
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昼。フィルナがケータイ越しに「ネネちゃん、今日は少し難しい声してるね~」と言った。
「正気だからだ」
「そっかぁ」とフィルナが言った。「まともにするって大変だね~」
「大変だ」
「でも、ネネちゃんだけが正気なんだよね~」
「そうだ」
「じゃあネネちゃんが一番えらいね~」
ネネが少し間を置いた。「……そういうことになるな」
「よかったねぇ」 がちゃり。通話が切れた。
ネネが「(よかったのか)(よかったのかもしれない)(よかったかどうかはわからない)」と内心だけで三段階で処理した。
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夕方。一党は宿を探していた。
田中がまた格調ある宿の前で止まった。今日で三日目だった。
「ここに——」
足が動かなかった。ぶるぶると震えて一歩も動けない。
昨日も一昨日も、同じだった。体が毎回、隣の安宿の方を向く。そして、結局田中が毎回、格調だ高級だと言い張る。それに応じてエリュシアが毎回、削れと叫ぶ。そんな日々が繰り返されていた。
ネネが静かに田中の隣に立った。
「田中。お前の足は、まともだな」
「……うるさい――」
「三日連続で足が安宿を向いている。体で覚えたものは消えないのじゃ」
「格調——」
「《《無駄》》だと思っているだろう」
田中が、止まった。
(……無駄)(違う)(格調だ)(いや)(無駄)(待て)
「……思っていない」
「顔に出ている」
「出ていない」
「我だけが正気だ。お前の真実が見える」
長い間があった。
田中が「……行くぞ」と言って歩き出した。向かった先は、隣の安宿だった。
エリュシアが「(今日も足が勝ちました)」と内心だけで言った。ネネが「言っただろうが」と小声で言った。
アルスが「師匠!!足が!!」と言いかけて、グラに「グゥ(うるさい)」と言われた。
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その頃、神界では——
「本日のネネ様の正論発言:七回。田中剛への届達率:ゼロ回です」
ウルダが書類を受け取った。しばらく黙った。
「……ゼロ回」
「エリュシアへの届達率も、ゼロ回です」
「……」
「ただし、フィルナへの届達率は百パーセントです」
ウルダの口元がかすかに動いた。「……フィルナちゃん、いい子ですね」
「見守りますか」
「寛大に、処置します」
「寛大一回。記録しました」
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さらにその頃、魔界では——
「魔王様より報告です!!本日も正気だったそうです!!」とゾルグが叫んだ。
「知ってる」とグレインが言った。「毎日そう言ってる」
「毎日正気なんです!!すごくないですか!!」
「そ れ が普通だ」
「普通なんですか!!」
「正気なのが普通だ。お前が普通じゃないだけだ」
ゾルグが三秒固まった。「……はいぃぃぃ」と言って泣いた。
フィルナが「でもネネちゃん、誰にも届いてなかったんだよね~」とおっとり言った。
「届かなかったな」とグレインが言った。「なるほどね。つまり——」
「でもフィルナには届いたんだよ~」
グレインが「……なるほどね(何もわかっていない)」と言った。
「よかったねぇ」とフィルナが言った。
「よかったのか?」とゾルグが泣きながら言った。
「よかったんじゃないかな~」
ゼフィーラが書類から目を上げた。「フィルナ」
「え~なに~?」
「それ以上言うな」
「え~なんで~?」
ゼフィーラが「(理由は言わない)」と内心だけで処理して、また書類に向き直った。
※おじさん解説!
「正気」といえば昭和の職場には「俺だけが正しい上司」が必ず一人いました。会議で正論を言うたびに誰にも届かない。それでも言い続ける。田中の前の職場にもいたそうです。田中はその上司のことを「無駄に正しい人だった」と評していました。
ゲームでいえばファミコンの『マリオブラザーズ』(一九八三年・任天堂)に似た状況です。二人でやると片方が邪魔をし続けて一切協力できない。正しい動きをしているのに全部裏目に出る。ネネ様の今週の状況と一致しています。
なお正気であることの証明は昭和でも難しかったそうです。「俺は正しい」と言えば言うほど信じてもらえない。田中はそれを二十三年間経験してきました。ネネ様はまだ四話目です。先は長いです。
以上です。(おじさん調べ)
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※神界業務日報 第八十四回
本日の特記事項。
ネネ様が七回正論を言いました。全部正しかったです。
私も同意しました。七回。
田中さんには届きませんでした。
ネネ様が「我だけが正気だ。お前の真実が見える」と言っておられました。
田中さんの足が安宿に向きました。ネネ様が正しかったです。
……悔しくはないです。そういう問題ではないです。以上です。
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※魔王の家計簿 第八十四回
本日も正気だった。七回言った。届かなかった。
フィルナだけが聞いてくれた。「よかったねぇ」と言った。
よかったのかどうかは今も処理中だ。
夕方、田中の足が安宿を向いた。我が言った通りだった。
「言っただろうが」と言った。誰にも聞こえていなかった。
支出:宿代十五G。適正だった。以上。
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※アルス修行日誌 第八十四回
今日もネネ様が正気でした。正しいことを七回言っていました。
師匠には届いていませんでした。
夕方、師匠の足が安宿に向きました。ネネ様が正しかったです。
グラに「うるさい」と言われました。今日で四回目です。
シャツは今日は破れませんでした。綿に戻したからだと思います。
師匠には言っていません。以上です。




