「腹筋は関係ないでしょ!!」
昨日より悪くなっている気がした。
根源の塔に向かう前の朝。
それだけははっきりしていた。
(いつもより少し高級な)宿の前に出た田中が空を見上げた。
晴れていた。根源の塔が遠く見える。昨日と同じ景色、昨日と違う自分。その違和感が、まだ続いている。
「今日の行程はどうしますか」とエリュシアが聞いた。
「格調ある宿で英気を養ってから進む」
「——論外です!! 行程を削れ!! 常識だろうが!!」
一拍あった。
エリュシアが自分の口を手で押さえた。
(三つ出ました)(田中さんの台詞が)(三つ同時に出ました)(処理中)
「……今日は三回だったな」と田中が言った。
「数えていたんですか!!」
「俺の台詞だからわかる」
「返してください!!」
「返し方がわからん」
ネネが腕を組んで二人を見た。「……昨日より悪化しているな」
「悪化していません!!」とエリュシアが言いかけて、止まった。
(……しています)(認めます)(でも声に出しません)
「……悪化しています」
「認めたな」とネネが言った。
「認めていません!! 今のは処理中です!!」
「同じことだ」と田中。「格調が上がっているということだ。問題ない」
「問題しかありません!! 削れ!! 常識だろうが!! 論外です!!」
田中が静かに言った。「……今日は何回目だ」
「四回目です!! 数えさせないでください!!」
「何回でも良い」とネネが言った。「話を進めるぞ」
全員が静かになった。ネネが正気の顔で二人を交互に見た。
「ネネ様だけが正気というのは……辛いですね」とアルスが小声で言った。
「やっと言ってくれたか、はぁ」
******
道中に鍛具屋があった。
アルスが足を止めた。「師匠!!ここに鍛錬用の器具が——」
「月額会費が高い上等な施設で鍛錬するべきだ。そういう場所を探せ」と田中が言った。
全員が止まった。
アルスが田中を見た。田中が店の前を素通りしながら言う。「格が落ちる。石床より上等な床材の施設に行け」
「あ、あの師匠が!?」「そんなことを!?!?」「言っているゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ!?!?!?」とアルスが三回に分けて絶叫しながら再確認していた。
「言っている」
アルスは(師匠が言っている)(どういうことだ)(......腕立てしよう)と三段階で結論を出し、その場で腕立てを始めた。
考えるより動く方が早いと判断した結果だった。
そして、三回目で、シャツが破れた。びりっ。
アルスが立ち上がり、破れた肩口を見た。「師匠!!また破れました!!」
田中が振り返った。「次は……シルクにしろ」
「えっ」
「上等な生地でないと鍛錬の格が落ちる。次は店で一番高いシルクのシャツを買え」
「シ、シルクですか!?」
「格調だ。常識だろ——」
「シャツ代を削れ!!お前なんか布キレでいい!!常識だろうが!!」
エリュシアの声が飛んだ。ドSが全開になった顔で田中を指差している。
田中が静かに言った。「……それは全部、俺の台詞だろうが」
「今は私の台詞です!!」
「返せ」
「返せません!!口から出てしまいました!!」
「どうやって出した」
「勝手に出ました!!」
アルスが破れたシャツのまま二人を見比べた。「あの、師匠と女神様の言ってることが……《《逆》》になっている気がするんですが」
「気のせいではない」とネネが言った。「術式のせいだ。我だけが正気だ」
「ネネ様……ご苦労様です」とアルスが言った。
「誰も言ってくれなかった。ありがとう」
ネネが少しだけ目を細めた。アルスが「はい師匠!!(破れたまま続ける)」と腕立てを再開した。何の師匠かは本人にも分かっていなかった。
******
昼過ぎ。街中を探し回ったが、上等な体育施設というものは、道中に見当たらなかった。
田中が石畳の広場の前で止まった。「……ここで鍛錬できないか」
「石畳です」とネネが言った。「格調はない」
「では格調ある石を探せ」
「石に格調の差はない」
「ある。削れた石と削れていない石がある」
ネネが一瞬だけ目を閉じた。(……正気の我に言わせるな)
アルスが自主的に腹筋を始めた。広場の石畳の上で黙々とやり始めた。
「師匠!!上等な床材ではありませんが始めます!!」
「……格が落ちる。やめろ」
「体が止まりません!!」
「腹筋は関係ないでしょ!!」
エリュシアの声が、広場に響いた。
全員が動きを止めた。エリュシアも、言った直後に固まった。
(……合っていました)(でも出どころが)(ドSから出てきました)(田中さんの立場から出てきました)(複雑です)
「……俺が言う立場を奪うな」と田中が言った。
「今は私が正しいです!!」
「それも奪った台詞だ」
「今回は本当に私が正しいので返しません!!」
アルスが腹筋を続けながら「女神様の言ってることが師匠みたいになってる……」と呟いた。
「なっていない」とエリュシアが言った。「……なっていませんよね?」と後半はネネに向かって言った。
「なっている」とネネが言った。「我だけに聞くな。全員に聞け」
「全員になんて聞けません!!」
「なぜだ」
「……恥ずかしいからです」
ドS成分が一瞬だけ引いた声だった。ネネが少しだけ得意げにドヤ顔をした。
「ふふん。我に聞いてよかっただろう?」
「……ありがとうございます」とエリュシアが言った。声がやや小さかった。
(正気なのは魔王様だけです)(神界業務日報に書きます)(書けません)
グラが田中の肩で「グゥ」と一声鳴いた。
田中が「行くぞ。格調ある宿を探しながら進む」と言った。
「格調ある宿は削れと——(止まる)……」
エリュシアが深呼吸して歩き出した。アルスが腹筋の途中で立ち上がり、破れたシャツのまま続けた。
「格調ある生地はシルクです師匠!!」
「そうだ」
「高いです師匠!!」
「格調にはそれだけの価値がある」
「シャツ代を削れ!!(エリュシア)」
「それが聞きたかった(アルス)」
「言わせないでください!!(エリュシア)」
「……正気の我に誰も聞かなかった(ネネ)」
グラが「グゥ」と鳴いた。それ以上は言わなかった。
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その頃、神界では——
「本日の田中剛・担当女神エリュシア経過報告です。価値反転デバフ継続中。エリュシアの外部発話回数:三十四回を確認しました」
「……三十四回」
「うち田中剛の確定台詞と一致したもの:三十一回。新規発話:三回です」
ウルダが書類を置いた。「うぷぷ……エリュシアちゃんらしいですね」
「どのあたりがですか」
「……見守ります」
「見守り一回。笑い我慢一回、記録しました」
「寛大に......お願いします」
※おじさん解説!
シルクのシャツといえば、バブル期のサラリーマンにとっての「格上の証明」でした。接待・飲み会・ディスコと、とにかくシルクを着ていれば「できる男」に見えた時代です。田中が二十代の頃、工場の先輩がボーナスでシルクシャツを買って自慢していたのを覚えています。「これ一枚で給料三日分だぞ」と言っていました。田中は「洗濯が面倒だろうが」と言い返したそうです。
そもそもシルクは昔から命がけの商品でした。一九八七年にタイトーから出た『虹のシルクロード』というゲームがあります。シルクを求めて砂漠や遺跡を駆け抜けるアクションゲームで、ファミコンにも移植されました。アルスくんの旅と方向性は一緒です。シャツのために命を張っているという点でも一緒です。
ゲームといえばドラゴンクエストシリーズにも「きぬのローブ」という高級装備が登場します。シルクは昔からゲームでも高かった。現実でも高い。変わりません。
なお信長の野望シリーズでは「絹」が最重要交易品のひとつです。織田信長もシルクの価値は知っていた。歴史が証明しています。
田中本人は当時も綿百パーセントのシャツを着ていました。洗濯が楽だからです。
以上です。(おじさん調べ)
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※神界業務日報 第八十二回
本日の特記事項。
「削れ」と言いました。三十四回言いました。言い過ぎました。
田中さんが「それは全部俺の台詞だろうが」と言いました。
三十五回目は少し控えました。
「腹筋は関係ないでしょ!!」も言いました。合っていました。複雑です。
アルスさんのシャツが破れました。シルクを勧められていました。
私が削れと言いました。正しかったです。田中さんの立場から言いました。
複雑です。以上です。
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※魔王の家計簿 第八十二回
本日も正気だった。誰にも信じてもらえなかった。
ただし、アルスが「ご苦労様です」と言ってくれた。嬉しかった。書いてしまった。
エリュシアが「恥ずかしいからです」と言った。正気の我だから聞けた。
支出:削減済み(エリュシアが削れと言ったため)。
以上。
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※アルス修行日誌 第八十二回
今日も師匠がおかしかった。女神様もおかしかった。ネネ様だけ正常だった。
ご苦労様です、と言ったら喜んでいただけた。
シャツが破れました。師匠にシルクを勧められました。
女神様に削れと言われました。
どちらが正しいかはわかります。でも師匠がシルクと言いました。
明日、シルクの値段だけ確認します。
腹筋は広場でやりました。石畳でも問題ありませんでした。
以上です。




