「よくやった(四回)」
田中はこれまで削って削って、削り続けた。
それでも彼には残ったものがある。
それだけで、充分だ。次も削れ――。
ベッカーの王道亭に戻れたのは、夕方だった。
ソレイユから半日の道を歩いて、見慣れた宿の看板が見えたとき、エリュシアが内心に思った。
(ようやく、帰ってきました)
(帰ってきた、という言葉が出ました)
(……田中さんと一緒に来たことのある場所が、帰る場所になっています)
(書く欄:ありました)
田中は何も言わなかった。看板を一秒見て、中に入った。
トメさんが厨房から顔を出して、田中を見て、それからパーティ全員を見渡した。増えていた。出た時より明らかに人数が多い。ギルもフィオもグラもいる。トメさんは何か言いかけて、やめた。何も言わずに「席に案内するよ!お客様、ご案内~」と言った。さすが田中が認めた熟練のおかみさんである。
席で少し待つと、ルコがテーブルに料理を運んできた。
最初の皿が来た。落ちなかった。二皿目が来た。落ちなかった。三皿目、四皿目、飲み物、パン、追加の取り皿。全部、一度も落とさなかった。ルコが最後の皿を置いて「ご注文の品はすべて、お揃いですね」と言って下がると、テーブルが少しだけ静かになった。
「成長しよったなあ」とトルネコが帳面をしまいながらしみじみ言った。
「一皿目から落とさなかったのは今日が初めてでっせ〜……たまりまへんなあ〜……」
「投資だ」と田中が言った。「回収が始まっている」
アルスが「(ぴょん)ルコさんの腹筋も鍛えられたんだと思います!!(ぴょん)」と言った。
「……腹筋は関係ないでしょ!」とエリュシアが言った。
「(ぴょん)関係あります!!(ぴょん)体幹が安定すれば皿は落ちません!!(ぴょん)」
「それは一理あります.....がやっぱおかしい!!」エリュシアがだいぶツッコミ始める。
「(ぴょん)でっしょ!!(ぴょん)」
フィルナが「ルコちゃん、よかったね!!」と大きく言い、ルコが少し離れたところから「……ありがとうございます」とちょうどいい声で返した。前より声が落ち着いていた。こちらも着実に積み上がっていた。
夕食が始まった。
******
食事が終わると、席の雰囲気が少しずつ緩んだ。
トルネコが帳面を広げてソレイユ遠征の収支をまとめ始め、ギルがグラスを傾けながら今後の書類整理を考えている。かたわらではフィオが石を磨いていた。
アルス「(ぴょん)師匠!!今日もトレーニングをします!!(ぴょん)」と立ち上がる。
「明日にしろ。飯を食った後は動くな」と田中。
「(ぴょん)飯と筋トレは両立します!!(ぴょん)」
「今日はとにかく食え」と返すと、アルスが「(ぴょん)食べます!!(ぴょん)」と言って座り直した。
アルスの外套は、肩の縫い目がまたまた悲鳴を上げていた。そろそろはち切れそうだ。
「服を作り直せ」と田中が言った。
「(ぴょん)まだ着られます!!(ぴょん)」
「破れる前に替えるのが節約だ。常識だろうが」
「(ぴょん)……はい!!(ぴょん)」
その三秒後、ぶちっ、という音がした。あちゃー。
外套の肩の縫い目が、ついに限界を迎えていた。アルスが腕を上げた拍子に、肩口が綺麗に裂けた。布が左右に分かれて、日に焼けた肩と上腕が露わになった。
テーブルが静かになった。
フィオが石を磨く手を止めた。ネネが目を細めた。エリュシアが「……」と何か言いかけてやめた。ルコが遠くから二度見した。
「……すごいですね」とフィルナが両手を合わせた。「よかった!!」
「何がよかったんですか」とエリュシアが言った。
「なんか、よかったです!!」
アルスが自分の肩を見て「(ぴょん)あ、破れました!!(ぴょん)」と言った。
「言っただろうが」と田中が言った。「修繕費はお前持ちだ」
「(ぴょん)ひい!!(ぴょん)でも師匠!!(ぴょん)」アルスが田中を見た。「(ぴょん)この体で、誰かの役に立てることはありますか!!(ぴょん)」
田中が少し止まった。アルスの肩から上腕を一秒だけ見た。
「……ある」
「(ぴょん)何ですか!!(ぴょん)」
「まだ早い。次の街で考える」
「(ぴょん)はい!!(ぴょん)楽しみです!!(ぴょん)」
エリュシアが内心で記録した。
(「ある」と言いました)
(「次の街で考える」と言いました)
(田中さんが「ある」と言った時は、だいたいあります)
(アルスさんの筋肉が、何かに使われる予感がします)
(書く欄:ありました)
ネネがグラスを持ちながら「――ところで、フィルナよ。そろそろ魔界に帰らなくていいのか」と言った。
フィルナが「えっ」と素っ頓狂な声を上げた。
「ゼフィーラが待っているだろう」
「う~ん……そうかな〜」
「ゾルグも書類が積まれているはずだ」
「それは、確かにそうだね〜!!」とフィルナが両手を合わせた。
「じゃあ明日帰ります!! ネネちゃん、また会いに来ていいですか?!」
「好きにしろ」
「よかったぁ~!!」
エリュシア内心
(フィルナさんが帰るそうです)
(「また来ていいですか」と言いました)
(ネネさんが「好きにしろ」と言いました)
(……「好きにしろ」は、ネネさんの「また来い」です)
(田中さんの「そうか」と同じ仕組みです)
(書く欄:ありました)
******
食後のしばらく、田中は卓上に肘をついて目を閉じていた。寝ているのか考えているのか、判断がつかない顔だ。誰も話しかけなかった。
エリュシアが向かいに座ったまま、田中をそっと見ていた。
「……エリュ、よくやった」と田中が目を閉じたまま言った。
エリュシアが止まった。
「……あの」
「よくやった」
「え、あの……」
ネネが横からエリュシアを見た。「......お前、叱られたかったんだろ」
「違います」とエリュシアが間髪入れずに言った。
「顔が——」
「違います!!」
「まあ」とトルネコがにやにやしながら言った。「要はこの女神、変態でっせ」
「私は、変態ではありません!!」と大きな声が出た。
テーブルが静かになった。
エリュシアが自分の声の大きさに気づいて、手を口に当てた。周りの視線がある。ルコが遠くから首を傾けていた。フィオが石を磨く手を止めて見ていた。アルスが「(ぴょん)元気な声でした!!(ぴょん)」と言った。
「エリ」と田中が言った。
「……はい」
「よくやった」
ぺち!
一回目。
「——っ」
「よくやった」
ぺち!
「……あの、田中さん」
「よくやった」
ぺち!
「……」
「よくやった」
ぺち!
四回。その行為はとても静かだった。エリュシアが少し俯いていた。
(......今回も、ありました)
(よかったです)
(...いやそうではないのに。私、やっぱり変態かもしれません)
「すっごく、嬉しそうだ」とネネが言った。
「…………何でもありません」
「顔が赤いな——」
「砂漠の名残です!!」
「王都に着いて三日経ってるが」
「!!!」エリュシアの顔は夕日の輝きのように真っ赤であった。
テーブルが笑いに包まれた。田中が目を閉じたまま前を向いていた。その口元が、少しだけ動いていたかもしれない。エリュシアだけが気づいていた。帳面には書かなかった。書けなかった、ではなく、書かないでいたかった。
******
夜が深くなったころ、ギルが席を立った。
「……俺は一度、実家に戻る」と言った。田中を見て、静かに続けた。「父の記録が、まだある。次に使うことになる前に、整理しておきたい」
「そうか」
「……また、お前たちに同行してもいいか」
田中が少し間を置いた。
「荷物は自分で持て」
「わかった」
「帳面をつけ続けろ」
「わかった」
「あと、自分の経費は食費、宿代、お前持ちにしろ」
「......なるほどな」
「以上だ」
ギルが頷いた。それだけで充分だった。エリュシアが内心で「(ギルさんの『わかった』が、最初の頃より何倍も速いです)(書く欄:ありました)」と記録した。
******
更に夜が深まって、テーブルに残ったのは田中とネネとエリュシアになっていた。
トルネコは帳面を閉じて先に休んだ。
アルスは「(ぴょん)明日の早朝トレ、よろしくお願いします!!(ぴょん)」と言って自室へ消え、フィオが「……おやすみ」と一言だけ言って立った。
グラがネネの肩からネネの部屋へ戻る前に、田中の袖を一度だけ翼で叩いた。「グゥ」と鳴いた。田中が「そうか」と言った。グラが「グゥ」と鳴いて、ネネの肩に戻った。
「何を言ってるかわかるのか?」とネネが聞いた。
「おやすみだ」
「……グラの言葉がわかるのか」
「わかる」
「……そうか」
三人はしばらく、何も言わなかった。
夜の王道亭は静かで、遠くで誰かが扉を閉める音がして、それからまた静かになった。
「次はどうするんだ、田中」とネネが言った。
「敵の本丸だな」と田中が答えた。
「……どこにある」
「北だ。王都を抜けた先にある」
「遠いな」
「そうだ」
「……まだ削るのか」
「まだある。削る」
ネネが少し間を置いて「我も行く」と言った。
「知っている」
「……知っていたのか」
「最初から来てるだろうが。常識だ」
ネネが口を閉じた。怒っているのではなく、どちらかというと満足そうな顔だった。エリュシアがそれを見て、帳面を出そうとして、やめた。
(書かなくていいです)
(見ていれば充分です)
(今夜は)
******
その夜遅く、田中が一人でテーブルに残って、紙に何かを書いていた。
エリュシアが水を持ってきたついでに、横から見た。何かの図面だった。格子状の線、小さな四角、引き出しのような記号。見たことのない形だった。
「……何ですか」
「設計図だ」
「何の設計図ですか」
「削れ。以上だ」
「削れ、というのは答えないという意味ですか」
「そうだ」
エリュシアが少し考えて「……いつか教えていただけますか」と言った。
「作ってから見せる」
「……作るんですか」
「そうだ」
それだけだった。エリュシアが水を置いて、自室へ戻りかけた。扉の前で少し止まって、振り返った。
「……田中さん」
「何だ」
「……よくやりました」
田中が紙から顔を上げなかった。少しだけ間があった。
「そうか」
それだけだった。
でもエリュシアは、それで充分だった。扉を閉めて、廊下を歩いて、自室に入って、帳面を開いた。
今夜だけは、たくさん書いた。
******
翌朝、田中一行は、次の目的地へ向かって歩き出した。
LVは、まだ高くない。
装備も、豪華ではない。
金も、余っているとは言えない。
だが、積み上げたものはあった。
歩いた距離。
拾った素材。
作った道具。
繋いだ商流。
削った無駄。
残った仲間。
田中は振り返らずに言った。
「第三段階、全節約完了だ」
エリュシアも、ネネも、今度は突っ込まなかった。
******
その頃、神界では——
「田中さんが『敵の本丸だ』と言いました」とカーヴェが書類を一枚置きながら言った。「エリュシアさんが『よくやりました』と、田中さんへ向けて言いました。田中さんが『そうか』とだけ返していたようですよ」
ウルダがしばらく黙っていた。
「……エリュシアさんが、自分から言ったんですか」
「はい」
「『よくやった』ではなく」
「『よくやりました』です。田中さんへ、向けて言いました」
また沈黙があった。
「……寛大なことです」
「何が寛大なんですか」
「全部です」とウルダが静かに言った。「田中さんが積み上げてきたもの、エリュシアさんが変わってきたこと、グラが飛んだこと、ルコさんが皿を落とさなかったこと。全部が、今日に収まりました」
「……それが寛大なんですか」
「寛大なことです」
カーヴェが書類を閉じた。「田中さんが今、設計図を書いています。内容は不明です」
「……削れ、と言われました」
「そうですか」
カーヴェ「あと、お尻を四回も叩かれて、喜んでました」
ウルダ「......うぷぷぷぷ、ぎゃーははははははははははははは!!!!!!め、女神がお尻を四回もた、た、叩かれて、ギャアアハハハハハハハハハハハぷわははあはははははははあははははははははははあははははははは!!!!!!!!!!!!ハァ、ハァ、ハァ......」
ウルダの「笑いたい」という感情は限界に来ていたのだ。
「主神、見なかったことにしますね」
「寛大に、見守ってください。いろいろと」
その顔は、穏やかだった。今夜だけは、珍しく、穏やかだった。すっごく笑っていたけど。
!三章・完!
■神界業務日報 第80回 記録者:エリュシア
本日の業務報告。
勇者田中剛:削減継続中。私:継続中。
特記事項:本日、「変態ではありません」と声に出しました。
お尻ペンペンがありました。たくさん、よかったです。
田中さんへ「よくやりました」と言えました。
「そうか」と言われました。充分でした。
設計図の内容は教えてもらえませんでした。
「作ってから見せる」と言われました。
楽しみだと思っていることは、書けません。
書けません。でも書きました。消しません。
以上です。
■魔王の家計簿 第80回 記録者:ネネ
本日の支出:削減済み。収支:黒字。
田中が「敵の本丸だ」と言った。
「最初から来るだろうが」と言われた。
言質を取られた。
田中が何かを書いていた。「削れ」と言われた。
エリュシアも聞いていた。同じ顔をしていた。
グラが「おやすみ」と言ったらしい。
我には聞こえなかった。
次は聞こえるかもしれない。
記録した。以上。
■フィルナのおたより 最終回(仮)
ソレイユの旅が終わりました!! よかった!!
明日から魔界に帰ります!!
またネネちゃんに会いに来ます!!
「好きにしろ」と言われました!! よかった!!
田中さんが設計図を書いていました!!
「削れ」と言われました!!
何を作るんでしょう!! よかった!!
(よかった、の理由はわかりませんが、なんかよかったです)




