「遅い(でも飛んだ)」
積み上げたものは、消えない。
削れないものが、本物だ。
今日、それが証明された。 ――それも、二回。
朝の帰り道、三人の足音が砂漠の石畳を叩いていた。
夜明けのダンジョンを出た直後の空気は、砂漠の朝らしく乾いていて、昨日よりわずかに温度は高かった。田中が前を向いて歩き、ネネが隣に並んで、エリュシアが少し後ろから発光石の入った袋を抱えてついてきた。
それは、近頃のいつもの順番、いつもの朝だった。
そろそろ宿が見えてきたところで、田中の足が止まる。
路地の先、宿の入口の前に人が立っていた。三人だ。胸元の紋章が、昨日の使者とは違った。ヴェルム系列の印ではなく、その上位組織の紋章だった。
「……どうやら残党でんな〜」と、物陰から帳面を開いたトルネコの声が低く聞こえた。「通知を出したのはあくまで砂漠地区の統括ですからな〜。上のやつらが独断で動いたようですわ〜」
田中が三人を見た。三秒。それだけで状況をつかんだ。
「戦るぞ」
******
相手は七人だった。路地の両端からも二人ずつ出てきて、田中たちを囲む陣形を作っていた。装備は重量級で、相互の連携が取れているパーティだ。個人ではなく組織として動いてきた、ということが隊形に滲み出ていた。
まず、アルスが前に出た。
これまでの毎朝の積み上げが、体に現れていた。むしろ出すぎていた。支給された勇者の外套の肩の縫い目が、すでに限界に近い音を立てていて、腕を上げるたびに布がぴんと張った。田中がその音を一度だけ聞いて「服代がかかるだろうが」とぼそっと言ったが、アルスはすでに動いていた。
剣は、抜かれなかった。
彼が腰に下げているはずの剣の代わりに右の拳が出た。LV13まで積み上げた体幹と、毎朝の腹筋一万回と、ウォータースライダーを四十二回滑った体が、砂地を踏んで最初の一人を弾き飛ばした。剣よりも速く、鋭く、的確に。
勇者なのに、剣は使われなかった。
トルネコが物陰から一秒だけそれを見て、帳面に「剣:未使用」とだけ書いて閉じた。
しかし、敵の数は多く、拳で弾いた先からすぐ次の敵が来て、アルスの側面に圧力がかかった。
「ネネ、左だ」と田中が言った。
ネネが動いた。魔力が制限されていても、千年の経験が体に染みついている。左から来た二人を受け止めて圧力を分散させると、グラが田中の肩から飛び立ち、奥の一人へ向かって石をくわえたまま突っ込んだ。
田中が正面に出た。
チートはなし。LVは7のままだ。それでも体は動く。二十三年間の習慣が、チートとは別の場所で積み上がっていた。
工場の床を歩き続けた足が重心の置き方を知っていて、修羅場で判断を積み重ねてきた頭が、相手の次の動きを先に読んでいた。
スキル常識断罪が展開した。
「その移動、論外だ」と田中が言った瞬間、相手の一人の動きが一拍止まる。確信の重さが場に満ちて、その一拍で田中が間合いを詰め、体ごと押し返した。
続いて強制削減が走った。相手が展開しようとした魔道具の強化が、根こそぎ剥がれた。「無駄だ、削れ」の一言が、根拠のない敵の強化をすべて削り取った。
田中のスキル、ネネの魔法、アルスの勇者マッスルパンチでさんざんな目にあわされた敵の一団が、息も絶え絶えになっている。
その時、ギルが懐から書類を一枚出して「この組織の上位承認は無効だ。君たちの行動に法的根拠はない」と静かに言うと、一人の足が一瞬だけ揺らいだ。確信を持って踏んでいた地面が、その一言で少し緩んだ。その隙をアルスは見逃さない。
エリュシアの神力が索敵に反応して「右、あと三秒です」と告げると、ネネがすでにそちらを向いていた。
押し合いが続いた。三分か五分か、体感では長かった。チートもなく、LVも低く、スキルと習慣だけで、それでも崩れなかった。田中が中心にいて、各自が自分の積み上げだけで動き続けていた。
一人、また一人と倒されていく敵。
相手が引き始めたのは、フィオが砂丘の上に姿を見せた瞬間だった。
魔道銃を持っていた。今回は、構えていなかった。ただ、そこに立っていた。それだけで残った三人の顔が変わった。昨日の一発の話が、組織内に広まっていたのだろう。
しばらくして、敵全員が撤退した。路地に、静寂が戻った。
******
戦闘終了後、田中は静かに、ステータスを確認した。
勇者 田中剛
LV:8 チート:無効
スキル:昭和製造法(習慣・技能・経験値のみ有効)
魔王 ネネ
LV:7 魔力:低下中(回復中)
女神 エリュシア
神力出力:制限中(通常の1割以下)
アルス
LV:13
LVが上がっていた。チートが無効のまま、早朝から積み上げてきたものが、一つ動いていた。
田中は何も言わなかった。前を向いて、歩き出した。積んだから上がった。それだけのことだ。
「(ぴょん)師匠!!LVが上がりました!!(ぴょん)」とアルスが叫んだ。
「そうか」
「(ぴょん)チートなしで上がりました!!(ぴょん)すごいです!!(ぴょん)」
「当たり前だ。積んだんだろうが」
「(ぴょん)はい!!(ぴょん)積みました!!(ぴょん)」
エリュシアがその数字を帳面に書きながら、少しだけ手が止まった。
(LV8になりました)
(毎朝、積み上げていました)
(チートがなくても、習慣は積み上がりました)
(「当たり前だ」と言いました)
(……そうです。当たり前に、積み上げていました)
(書く欄:ありました。たくさん、ありました)
******
帰り道、砂漠の外れの街道を歩いていたとき、田中の肩からグラがいなくなっていた。
最初に気づいたのはネネだった。「……グラがいない」と言って空を見上げると、田中も足を止めた。
砂漠の空に、青緑の影が一つあった。小さかったが、飛んでいた。ぎこちなく、どこか不格好に、それでも確かに自分の翼で上昇していた。田中の肩を踏み台にして飛び立ったのか、自分から飛んだのか、誰も見ていなかった。
田中が空を見上げた。
「遅い」
それだけ言った。
ネネが田中の隣で「……ずっと肩にいたのに」と、少し遠くを見ながら言った。怒っているのでも寂しいのでもなく、ただ事実を口にしているような声だった。
「先行投資だ」と田中が前を向いたまま言った。「回収タイムだ」
グラが空でひとつ旋回して、田中の肩に戻ってきた。降り方がまだぎこちなく、着地した瞬間に少しよろけて、田中の首に翼をかけて体を安定させた。
「グゥ」と鳴いた。
「遅い」と田中がもう一度言った。今度は少しだけ、声が小さかった。
ネネがグラを一度だけ見てから前を向き「……なるほどな」と静かに言った。田中は返事をしなかったが、歩く速度が少し緩んで、グラが肩に落ち着くのを待った。それだけだった。
エリュシアはその一部始終を少し後ろから見ていた。帳面を出す間もなく、ただ見ていた。
(グラが飛びました)
(田中さんが空を見上げました)
(「遅い」と言いました)
(珍しかったです)
(……「先行投資だ。回収が始まった」は、グラだけのことではない気がします)
(積み上げてきた全部の、回収が始まっています)
(書く欄:ありましたが、書けませんでした)
(書かなくていいと思いました)
(今日は、見ていれば充分でした)
砂漠の夕方の光の中で、三人と一頭が並んで歩いていた。グラが田中の肩の上でもう一度「グゥ」と鳴いた。その声が、砂漠の乾いた風の中に溶けていった。
******
その頃、神界では——
「田中さんのLVが8になりました」とカーヴェが書類を一枚置きながら言った。「チートは依然として無効。早朝のダンジョン積み上げと本日の戦闘で、スキルのみでLVが動きました」
ウルダが少しの間、目を閉じた。それから静かに開いた。
「……グラさんが飛びました」
「はい。初めてです」
「田中さんは何と言いましたか」
「『遅い』と言いました。二回」
沈黙があった。今日の沈黙は、長くなかった。
「……寛大なことです」
カーヴェが書類をまとめながら「田中さんの『遅い』には、いつも別の言葉が入っていますね」と言った。
「何が入っているんでしょう」
「……さあ」とカーヴェが言った。「でも入っています。記録にはできませんが」
ウルダが窓の外を向いた。砂漠の夜が始まっていて、空に星が出始めていた。その顔は、今日だけは穏やかだった。
■神界業務日報 第79回 記録者:エリュシア
本日の戦闘:SONY残党・七名。
田中さんのLVが8になりました。ネネは7に上がっていました。
(私はいつ戻るんでしょう?)
チートは無効のままです。習慣が積み上がりました。
グラが飛びました。
田中さんが空を見上げました。「遅い」と言いました。
珍しかったです。
見ていれば充分だと思いました。
書く欄:ありましたが、今日は書きませんでした。
以上です。
■魔王の家計簿 第79回 記録者:ネネ
本日の支出:なし。
戦闘:SONY残党。消耗:最小。田中のスキルが通った。
LVが8になった。チートなしで上がった。我もLVが7に上がっておる。
グラが飛んだ。支出:0G。
田中が空を見上げていた。珍しかった。
「遅い」と言っていた。
声が、少しだけ小さかった。
記録した。以上。




