「正しいことで、今日は勝った」
夜明け前、ソレイユの路地はまだ暗かった。
石畳の温度だけが一歩ごとに変わる。昼間の熱を吸った石が、夜の間に少しずつ冷えていくのが足の裏でわかるほどであった。そんな中――、田中が前を向いたまま歩いていた。その隣にネネ、少し後ろにエリュシアが続いていた。最近は毎朝、こんな感じである。
三人で歩く朝になってから、もう何日になるか。田中は数えていなかった。数える必要もなかった。毎朝三人がここにいる。それだけのことだ。
ダンジョンは郊外の砂岩層の浅層を周回していた。砂漠のダンジョンは熱を持っていて、朝でも内部は昼間に近い空気が残っている。田中が入口を軽く確認して、降りていった。
エリュシアが左の岩盤に反応した。
「……発光石、三層あります」
「取れるだけ取れ」
「わかりました」
ネネが先行して正面の通路を確認した。失われた魔力が回復傾向にある。制限がかかっていても、毎朝の積み上げが少しずつ変化と成長の気配を作り始めていた。
田中が索敵しながら奥へ進んだ。体が先に動いている。二十三年間の習慣が、チートとは別の場所で積み上がっているのが、自身でも、周囲からもわかるようになっていた。廃坑で体験したことがまだ手の中にある感覚だった。
三人はその後も一時間半、戦闘と探索をこなした。これが最近の三人のルーティンである。
ダンジョンを出ると、ソレイユの空が白み始めていた。
田中がステータスを確認した。LVは動いていなかった。「まだか」とは言わなかった。言う必要もなかった。動いていないなら、また積みあげていく。ただ、それだけのことだ。
エリュシアが発光石を袋に入れながら「本日の回収:発光石十一個、砂岩結晶四個。素材価値:推定八十G相当です」と言った。
「悪くないな」
「……また来ますか」
「明日も来る。以上だ」
ネネが前を向いたまま「我もいくぞ」と言った。
「そうか」
「……お前の言質を取った」
「勝手に取れ」
エリュシアが内心で一行書いた。
(三人で来ることが、当たり前になっています)
(言わないことの方が多いですが)
(言わなくていいと思っています)
(書く欄:ありました)
******
宿に戻ると、いずこかより使者が来ていた。
今度は、外套に紋章がない。ヴェルム系列の印鑑だけが押された薄い書類を一枚、田中の前に差し出して「撤退通知です」と言った。それだけ伝えると使者は帰った。
田中がその書類を受け取り、黙って読んだ。
「ソレイユ周辺の流通独占権:放棄。農村への物資制限:解除。市場規約:元の条件に戻す。三点、確認しました」とエリュシアが隣で言った。
「そうだ」と田中が書類をギルに渡した。「保管しておけ。証拠だ」
ギルが受け取った。書類を扱う手が、少しだけ丁寧だった。
「(ぴょん)師匠!!終わったんですか!!(ぴょん)」
「まだ終わっていない。SONYはまだある。今日の分が片付いただけだ。以上だ」
「(ぴょん)……はい!!(ぴょん)」
田中は何か考えているような面持ちで、おもむろに立ち上がった。
******
午前中、田中はソレイユの郊外農村を回った。
荷馬車の跡が残る街道を歩きながら、旗の跡を確認した。地面に残る穴だけが、ヴェルム商会の旗がそこにあったことを示していた。もう、旗はない。ギルが指示を出して、順次、撤去させていた。
そして一番の変化は、市場が開いていた。
農村の住人が、普通に歩いていた。子供が野菜を一束手に持ちながら母親の後ろをついて歩いていた。露店の店主が量りで香辛料を量り、商人が馬を繋いで帳面を広げていた。三日前まではできなかったことが、今日は普通にできていた。
田中がその光景を見たのは、たった三秒だった。それだけだった。そして、また、歩き出した。
トルネコが市場の一角で何かを確認していた。帳面を広げて、露店の店主と話していた。田中が近づくと「田中はん、田中はん!!!!ちょっとこれ見てくださいよ!!」と声を上げた。
露店の隅に、見覚えのある品が並んでいた。
野球盤だ。昭和工廠で最初期に作った品の一つ。王都で売り出したものが、流通に乗って砂漠の交易都市まで来ていた。
「ごっつこれ売れてまっさ〜!!」とトルネコが帳面を叩いた。「砂漠の商人が仕入れて、ここで売っとるんですわ〜!!定価の一・五倍になってまっけど、それでも売れまくってますわ〜!!たまりません!!」
「転売か」
「商いでっせ〜!!でも田中さんの作ったもんが、ソレイユまで来たってことでっすよ!!すごないですか!!」
田中が野球盤を一秒見た。それから前を向いた。
「......値段が上がっているなら、次のロットを直接こちらに卸す。中抜きを削れ」
「やっぱりそっちに行きますわね、あんさんにはかまいまへんな!!」
もう一軒、別の露店の前を通ったとき、田中の目が止まった。
若い商人が、ケータイを耳に当てていた。カーヴェが改良したシリーズの二世代目だ。砂漠の電波は悪いが、一秒文化が浸透してきているせいか、通話が短くて済む分だけ使い勝手がいい、という話をトルネコから聞いていた。その商人が、一秒で通話を終えて、帳面に数字を書いた。
「……普及しているな」と田中が言った。
「でっせ〜!! 砂漠ルートの商人は短い連絡が命でっさかい〜、一秒文化が一番合ってるんでっしゃろな〜!!」
「カーヴェの改良版か」
「三世代目が出るって噂でっせ〜!!」
田中があごに指を置いて少し間をあけた。野球盤もケータイも、ここに来て根付いていた。昭和の知識を削って削って、使える形に整えて、異世界の素材に乗せた。正しと信じたから作った。負け続けたから諦めなかった。その積み上げが、今日この市場にある。
エリュシアが少し後ろから、田中の背中を見ていた。
(野球盤が、ここまで来ていました)
(魔道ケータイが、普及し始めています)
(田中さんが作ったものが、市場を動かしています)
(……正しかったんです)
(あなたは、ずっと、正しかったんです)
(でも田中さんは何も言いません)
(前を向いています)
(書く欄:ありました。たくさん、ありました)
******
帰り際、村の入口でハドソンが待っていた。
連絡がきていたわけではなかった。彼は、来た理由を言わなかった。ただ田中の前に立って、少し間を置いてから「……礼を言いに来た」と言った。
「いらん」
「言わせてくれ」
田中が止まった。
「田ノ里も、ここと同じ状況になる可能性があった。だが、書類で動いてくれた。証拠を使ってくれた。父の記録が、また役に立った」
「そうだ。役に立ったなら、以上だ」
「……それだけか」
「それだけだ」
ハドソンが深く頭を下げた。田中は受け取らなかった。受け取り方を持っていない顔で、前を向いた。
その背中を見ながら、ハドソンが小さく言った。
「……先代も、礼を受け取らなかったと聞いた」
田中は振り返らなかった。
少しだけ、歩く速度が落ちた。それだけだった。
******
夕方、ソレイユの大通りの端で、田中が一度だけ立ち止まった。
市場の声がまだ遠くから聞こえていた。普通の声だった。値段を聞く声、返す声、笑い声。三日前まではなかった声が、今日は当たり前のように通りに溶けていた。夕日が砂地を橙色に染めて、長い影が石畳の継ぎ目を越えて伸びていた。
「正しいことをするたびに、俺だけ負けた」と田中が言った。
誰に言ったのかわからなかった。前を向いたまま、少し遠くに向かって言っている声だった。
「それでもやるけどな」
砂漠の風が一度だけ吹いた。
「……今日は違った。それだけだ」
エリュシアがその言葉を、少し離れたところで聞いていた。
声には出さなかった。
帳面を開こうとして、止まった。
(22歳の3月も)
田中が初めて改善提案を出した年のことは、書類の中にある。却下印が押されたことも、全部処理した。
(31歳の3月も)
先輩が死んだ年のことも、書類の中にある。上申書が何度も却下されたことも、事故が起きたことも、全部書類として処理した。
(35年分の上申書も)
全部ある。全部、処理した。それが仕事だったから、処理し続けた。今日まで。
(私が処理しました。全部、書類として処理しました)
野球盤がソレイユの露店に並んでいた。ケータイが砂漠の商人の耳に当てられていた。農村の子供が普通に母親の後ろを歩いていた。田中が三秒だけ見た光景が、エリュシアの中にまだある。
(——今日だけは違いました)
言えなかった。言う権利があるかどうか、まだわからなかった。
でも書く、と思った。
帳面を開いた。一行だけ書いた。
(田中の――勝利です)
書いて、閉じた。
田中が歩き出した。
「エリュ、行くぞ」
「……わかりました」
エリュシアは田中の隣に並んで、歩き出した。砂漠の夕日が、二人の影を長く引いていた。
勇者 田中剛
LV:7 チート:無効
スキル:昭和製造法(習慣・技能・経験値のみ有効)
魔王 ネネ
LV:6 魔力:低下中(回復中)
女神 エリュシア
神力出力:制限中(通常の1割以下)
アルス
LV:12
田中がステータスを確認した。LVは変わっていなかった。それを見て、前を向いた。明日も積む。それだけのことだ。
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その頃、神界では——
「田中さんが「正しいことをするたびに、俺だけ負けた。それでもやるけどな。今日は違った。それだけだ」と言いました」とカーヴェが書類を一枚置きながら言った。
ウルダがしばらく黙っていた。窓の外の砂漠の空が、暗くなり始めていた。
「……エリュシアさんの業務日報は」
「今日だけ、届いていません」
また沈黙があった。長い沈黙だった。
「……野球盤が、ソレイユの露店に並んでいたそうです」とカーヴェが続けた。「魔道ケータイも、砂漠ルートの商人に普及し始めています」
「……田中さんが作ったものが、市場を動かしていますね」
「はい」
「……寛大なことです」
今日だけは、その言葉が静かすぎて、遠くまで届いた。
正しいことをするたびに、俺だけ負け続けた。
二十三年間、そういう話しかなかった。
だが――今日は違う話だ。




