「先行投資だ」
出発前日。トルネコが地図を広げた。
販売網の話だった。投資は人だ。 常識だろうが。
次の目的地への出発は翌朝に決まっていた。
王道亭の隅のテーブルで、トルネコが地図を広げていた。羊皮紙に書き込みがびっしり入っている。街道・港・鉱山・距離・予測所要日数。几帳面な字だった。
「田中さん〜、ちょっとよろしいですか〜」
田中が地図を一瞥した。
「言え」
「ベッカー支店が動き出したら〜、次は流通ルートを固めたいんですわ〜。シーラ(港)、ドルガン(鉱山)、それぞれに卸先を一件ずつ押さえとけば〜、素材が出るたびにルコはんから転送できまっさ〜」
「転送コストは」
「そこなんですわ〜。転送魔法は高い。なんで街道商人に委託する方が現実的でっしゃろか〜」
「委託料は」
「交渉次第でっけど〜、五パーセント以下に抑えられると思いますわ〜」
「なら、やれ」
「毎度おおきに〜!」
トルネコが地図に丸をつけ始めた。
エリュシアが内心で整理した。
(ベッカーを中継点にして、各地の素材がルコのところに集まり、委託商人が各街へ届ける)
(田中さんが動かなくても収益が入る構造です)
(……こういう設計を、出発前日の朝に確定させます)
(記録します)
ギルが向かいのテーブルからその地図を見ていた。
「……待て。その委託先、街道沿いの定期便商人か」
「そうでっせ〜、ギルはん、知ってはりますか〜」
「ベッカーからドルガンの街道は採掘権者の私道を一部通る。許可がないと定期便が止められることがある」
田中がギルを見た。
「解決できるか」
「……父が採掘組合に名前を持っていた。書類は残っている」
「持ってこい」
「ドルガンに着いてからでいいか」
「それでいい。使える」
ギルが少し止まった。
(また「使える」だ)
(一回目より二回目の方が、なぜか重く聞こえた)
トルネコがにやっとした。「ギルはん、田中さんに気に入られてまっせ〜」
「……気に入られているのか、これは」
「田中さんが人を褒めるのは『使える』だけでっさかい〜。最高評価でっせ〜」
「それが最高評価なのか」
「そうでっせ〜」
ギルが田中の背中を見た。
(……「本物だ」と言っていた)
(「使える」と言う)
(この男の語彙は少ない)
(なのに全部残る)
******
昼前、ルコが帳面を持って田中の前に来た。
「……あの、支店の仕入れ先を三件、自分で当たってみました」
「見せろ」
田中が受け取った。三件の名前と、それぞれの取引条件・掛け率・支払いサイクルが書いてある。比較欄がついていた。
「……お前、これ自分で書いたか」
「はい」
「誰かに教わったか」
「田中さんに教わった書き方です」
田中が三秒だけ帳面を見た。それから返した。
「一件目を使え。掛け率が低い」
「わかりました」
それだけだった。ルコが帳面を抱えて厨房に戻った。
トルネコが横でにやっとした。「ルコはん、ほんまに伸びてますな〜」
「投資は人だ」と田中が言った。「ルコに任せろ」
エリュシアが内心で一行書いた。
(……三秒でした)
(また、見たことのない顔でした)
(書く欄:今日も少しだけありました)
ギルが腕を組んで言った。「……あの子、貴族の帳面管理と同じ形式で書いているな」
「教わったからだ」と田中が言った。
「誰に」
「俺に」
ギルが少し黙った。
(……田中が教えた)
(没落前、父の家令も同じような帳面を使っていた)
(当たり前だと思っていた)
(当たり前じゃなかったのか)
******
昼食の後、アルスが中庭で日課の腹筋を始めた。
「師匠!! 本日の腹筋、六千回です!! あと四千回で完了です!!」
「よくやった。続けろ」
田中が筋トレを横目に、荷物の最終確認を始めた。アルスがぴょんぴょん跳ねながら腹筋を続けている。
ギルがその横を通りかかった。足が止まった。
「お前……何をやっているんだ」
「腹筋です!!(ぴょん)ギルさんも一緒にどうですか!!(ぴょん)」
「遠慮する」
「師匠から命じられました!!(ぴょん)」
「私は命じられていない」
田中が通りがかりに言った。「ギル、腹筋千回だ」
「……なぜ私まで」
「体が資本だ。論外を減らせ。常識だろうが」
ギルが少し間を置いた。
(資本、という言葉を使った)
(貴族の論理で言えば「身体は最低資本」だ)
(……正しい)
「……わかった」
ギルがアルスの隣に座った。腹筋を始めた。
「ギルさん!!(ぴょん)一緒にやりましょう!!(ぴょん)」
「跳ねながらやるな。効率が落ちる」
「師匠と同じことを……!!(ぴょん)」
「跳ねてる」
「体が覚えてしまっています!!(ぴょん)」
エリュシアがその様子を眺めていた。
(……アルスさんが跳ねています)
(ギルさんも腹筋しています)
(田中さんの一言で動きました)
(……私にも、いつか腹筋を命令されるのでしょうか)
一秒止まった。
(……されたく、ない)
(……でも)
(…………)
(書けません)
「エリュシア、また顔が赤いぞ」とネネが言った。
「なんでもありません!!」
「そうか」(......こやつ、”本物”のアレだからな――うむ。まあ黙って居よう)
ネネが縁側からアルスを眺めた。腹筋しながらぴょんぴょん跳ねている。
「しかし……あれは本当にキモいな」
「キモいです」とエリュシアが即答した。
「珍しく早かったな」
「今回ばかりは迷いませんでした」
ギルが腹筋しながら横目でアルスを見た。
「……お前、なぜ跳ねている」
「体が!!(ぴょん)覚えてしまいました!!(ぴょん)師匠が移動中もやれとおっしゃったので!!(ぴょん)」
「……なぜ従っている」
「師匠だからです!!(ぴょん)」
「それが理由か」
「それだけで十分です!!(ぴょん)」
ギルが少し止まった。腹筋の手を止めた。
(「それだけで十分」)
(この集団、全員そう言う)
(なぜ私まで腹筋しているんだ)
(……でも)
(「体が資本だ」は正しかった)
「……続けるか」
「ギルさん!!(ぴょん)いい目をしています!!(ぴょん)」
「褒めるな。キモい」
「キモいです」とエリュシアが再び即答した。
「またキモいと言った」とネネが言った。
「キモいものはキモいです!!」
「でも止めに行かない」
「……行きません」
グラが縁側で「グゥ」と鳴いた。同意しているように聞こえた。
トルネコが帳面から顔を上げた。「……田中さん、腹筋代は経費になりまっか〜」
「ならん」
「でも体が資本なら〜、健康管理費として計上できひんですかね〜」
「自分でやれ」
「せやったら私も腹筋しますわ〜」
「するな。荷物番だ」
「……よかったですわ〜」
――この世界に、ぷろていんが登場するのは、もう少し先の話になる。
******
夕方、田中が出発前の最終確認をした。
「明日の朝、ここを出る。ドルガンまで二日だ。街道沿いの安宿を使う。ルコ」
「はい」
「支店は任せた。わからんことはトルネコに聞け」
「わかりました」
「帳面は毎日つけろ。見るのは戻ってからだ」
「……はい」
ルコが少し間を置いた。「……田中さん」
「何だ」
「お気をつけて、無事、お戻りください」
田中は特に何も返さなかった。荷物を肩にかけて、明日の段取りを確認し始めた。
それが答えだった。ルコにはわかった。
トルネコがルコの横に来て、小声で言った。「あれが田中さんの『わかった』でっせ〜」
「……荷物をかけ直しただけじゃないですか」
「そうでっせ〜。それが田中さんの返事でっさかい〜」
ルコが少し間を置いて、前を向いた。
エリュシアが内心で一行だけ書いた。
(……荷物を少し丁寧にかけ直していました)
(相変わらず、不器用な方)
(記録します。書く欄:今日は十分ありました)
******
その頃、魔界では――
ゾルグが机の前に座って、表紙を書き直した手帳を開いた。
「魔界管理日誌……第一回」
ペンを走らせた。三行で書いた。三行きっかりで書いた。
それから糸電話を手に取った。震える手で糸を張った。
「……田中さん。ゾルグです。本日より魔界管理日誌を開始します。魔界状況:平常。以上です!!」
一秒の間があった。
「削れ。以上」
ブツッ。
一秒だった。
ゾルグが糸電話を静かに置いた。
「……返答が三文字でした」
グレインが壁から言った。「お前の報告も削れということだろう」
「三行でしたのに!!」
「三文字で返せる三行だったということだ」
ゾルグが手帳を見た。「魔界管理日誌 第一回」と書いてある。
「……次は二行にします」
「認めてないが、正解だと思う」
「認めてますよねぇ~」と遠くでフィルナが言った。
「認めてない」
フィルナが小首をかしげた。「ねえゾルグさん〜、三行って何行?」
「三行は三行です!!」
「じゃあ二行って何行?」
「二行です!!」
「じゃあ田中さんは何行?」
「……三文字でした」
「それって何行?」
ゾルグが止まった。
「……一行、以下です」
「短い。すごいね〜!!」
「すごくないです!!」
ゼフィーラが書類から顔を上げた。「全員、静かにしなさい。業務中だ」
三人が黙った。
五秒後、フィルナが「ねえゼフィーラ〜、業務って何行?」と言った。
「黙りなさい」
「はーい〜」
魔王城は平和じゃないのに、今日も平和でした。
******
その頃、神界では――
ウルダが報告書を受け取った。
「田中商会ベッカー支店、流通ルート確定。委託先交渉:トルネコ担当。ギルの採掘権書類活用予定。ルコが自主的に仕入れ先三件を比較検討して提案。田中が一件を採用」
「……そうですか」
「ルコが自主的に動いた点について特記がありました」
「何と」
「田中さんが『投資は人だ』と言ったそうです」
ウルダが少し間を置いた。
「……また言いましたか」
「はい。記録上、今日で七回目です」
「七回」
「はい」
「……七回同じことを言うということは」
「信念、かと」
ウルダが穏やかな顔で窓の外を見た。
「……見守ります」
「寛大です」
補佐官が記録した。「本日:一回。却下印:一枚消費。残り:九十四枚。笑み:〇・六回分」
補佐官が少し間を置いた。「……ウルダ様、笑みの計測を始めてから何回目ですか」
「数えていません」
「数えましょうか」
「……数えなくていいです」
「なぜですか」
ウルダが少し止まった。
「……数えると、楽しみにしている気がします」
「楽しみにしていいのでは」
「神は寛大に、見守るものです。楽しみにはしません」
「……足の貧乏ゆすり、今日三回目です」
「記録しなくていいです」
「記録します。」
※おじさん解説!
信長の野望というゲームがある。
1983年、光栄(現コーエーテクモ)が発売した歴史戦略ゲームだ。武将を登用して、城を攻めて、天下を取る。当時のパソコンゲームだ。
このゲームの核心は「人材だ」。武将には数字がある。知力・武力・政治。この数字が高い武将を登用できるかどうかで、ゲームの勝敗が決まる。強い城より強い人間の方が大事だ。
田中が「投資は人だ」と言うのと、同じ話だ。
昭和の現場でも同じだった。設備より人間だ。マニュアルより習慣だ。金をかけた設備は壊れる。でも人間が体で覚えたものは壊れない。
ルコが自分で帳面を比較して提案してきた。それは田中が教えた形だ。教えたものが戻ってきた。これが先行投資の回収だ。
信長の野望は今もシリーズが続いている。四十年以上だ。人を大事にするゲームは長続きする。常識だろうが。
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※神界業務日報 第五十五回
本日の特記事項。
田中商会ベッカー支店、流通網確定。
ルコさんが自主的に仕入れ先三件を比較検討しました。記録します。
田中さんが「投資は人だ」と言いました。七回目です。記録します。
ギルさんが腹筋に巻き込まれました。
「体が資本だ」という理由でした。
論理は通っています。通ってしまっています。
腹筋しながら跳ねている光景を「キモい」と申し上げました。
二回申し上げました。
迷いはありませんでした。
記録します。
田中さんが荷物を少し丁寧にかけ直していました。
記録します。書く欄:今日は十分ありました。
以上です。
【現在のステータス】
勇者 田中剛 LV:2 チート:無効
魔王 ネネ LV:3相当 魔力:低下中
女神 エリュシア 神力出力:制限中(通常の1割以下)
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※魔王の家計簿 第五十五回
本日の支出。
王道亭宿代:田中が交渉済み(今回も金額は聞いていない)
昼食・夕食:支払い済み
田中が「投資は人だ」と言った。
ルコが自分で動いていた。
田中がそれを三秒で評価した。
我も千年、臣下を持ってきた。
三秒で評価したことがあったか。
……あまり、なかった気がする。
次からある。
家計簿に書いた。
追記:腹筋で跳ねているのはキモい。
エリュシアも言っていた。
珍しく意見が合った。
【現在のステータス】
勇者 田中剛 LV:2 チート:無効
魔王 ネネ LV:3相当 魔力:低下中
女神 エリュシア 神力出力:制限中(通常の1割以下)
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※ゾルグ魔界管理日誌 第一回
魔界管理日誌を開始する。奪還日誌から改名した。
田中さんへ糸電話にて報告した。
返答:「削れ。以上」(一秒)
三行で報告したが、三文字で返ってきた。
次は二行にする。
魔界状況:平常。
ネネ様:ご不在継続中。
四天王:各自業務中。
以上。
追記:フィルナが「二行って何行」と聞いてきた。
二行だ。
「じゃあ田中さんは何行」とも聞いてきた。
一行以下だ。
「すごいね」と言っていた。
すごくない。いや、すごい。悔しい。




