「エリュシア、動く」
アドルからの写本が届いたのは、古木の森を訪れた翌々日の朝だった。
宿の入口に、丁寧に紐で束ねられた数冊の書物が置かれていた。表紙に一言だけ書いてあった。
『記録する約束を守ります。——アドル』
エリュシアが手に取った。束の重さが、掌に伝わってきた。
(……写本です。アドルさんが徹夜で作ったかもしれません。八百年分の記録の中から、神界に関係する部分を全部書き写した。それだけのものが、ここにあります)
表紙をめくると、最初のページに小さな文字で一行だけ書き加えてあった。
『削除された部分の前後を、できる限り補いました。参考にしてください』
エリュシアは少しだけ目を閉じた。
(……八百年、誰にも頼まれなかったと言っていました。それでもこれだけの仕事をした)
(アドルさんも、守れる分を守ってきた人なんですね)
書物を抱えて、部屋に向かった。
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調査は思っていたより早く進んだ。
カーヴェが横に座って、手帳に何かを書き続けている。エリュシアが写本を読み進め、気になる箇所に指を止めると、カーヴェが無言で別の資料を差し出す、という作業が繰り返されていた。
「ここの削除、二十三年前から始まっている」とカーヴェが言った。「記録帳の消し方が、この年を境に変わってる。それ以前は自然な劣化。それ以降は意図的な消去」
「二十三年前」とエリュシアが繰り返した。
声が少し変わったのを、カーヴェは聞き逃さなかった。
「……何か思い当たる?」
「……いいえ」
「顔に出てる」
「出ていません」
「出てる。今、ちょっと止まったでしょ」
エリュシアが写本から目を上げて、カーヴェを見た。
「カーヴェ」
「はい」
「なぜあなたはここまで手伝ってくれるんですか。これは規定外の調査です。あなたには関係がない」
カーヴェが少し考えてから、肩をすくめた。
「私にできることをやる。それだけ。書類の不正消去は技術記録の改竄にも繋がる。私の管轄に引っかかる」
「……それだけですか」
「それだけよ」
エリュシアが少しだけ間を置いた。
「……ありがとうございます」
「お礼は成果が出てから言って」
それきり二人とも黙って、また作業に戻った。
(カーヴェは自分ができるかどうかだけで動く。でも今日の手伝い方は、それだけじゃない気がする)
(言いませんが)
(……少しだけ、ありがたいです)
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昼過ぎ、廊下でアルスがうずくまっていた。
フィルナが横でしゃがんで「大丈夫?!大丈夫?!」と繰り返している。
「大丈夫です!! 根性でカバーしています!!」
「膝が根性でカバーできてないよ!!! 曲がる向きがおかしい!!!」
「曲がる向きがおかしいのはなぜですか師匠!!」と田中に向かって叫んだ。
田中が廊下を通り過ぎながら「兎跳びのしすぎだ」と言った。
「師匠がやらせたんですが!!!!」
「つばでもつけときゃ治る。今日は腕立てでいい」
「膝が治るまで腕立てしていいんですか!! なぜか少し嬉しいです!!!」
「(なぜ嬉しいんですか)(でもわかります)」とエリュシアが部屋の中から内心で呟いた。
ネネが廊下を通りながら、アルスを一瞥した。
「……ゾルグに似てきた」
「どういう意味ですか魔王様!!!」
「目の下のクマだ」
「使命感だけで動いてるって顔ってことですよね!!」
「そうだ」
アルスが少しだけ黙った。
「……師匠に『使えるな』と言ってもらうために、もう少し頑張ります」
ネネが少し止まった。
「……馬鹿め」と言った。声が少し柔らかかった。「だが、おぬしはそれでいい」
******
夕方になって、エリュシアの手元にある写本の、ある一枚が光った。
神界からの通信だった。文字が浮かび上がって、ゆっくりと読めるようになっていく。
ウルダからだった。
『エリュシア。その写本に関する調査を、これ以上進めることは規定外となります。直ちに中断し、写本を神界へ送付してください。これは命令ではなく、規定による通達です』
エリュシアが通知を読んだ。もう一度読んだ。
カーヴェが横からちらりと見て、何も言わなかった。
窓の外で、田中が一行に何か指示を出している声が聞こえてきた。低くて、短くて、いつもと変わらない声だった。
エリュシアは写本を手に取った。
通知の文字はまだ光っていた。
『送付してください』という言葉が、静かに待っていた。
(二十三年前から、削除が始まっている)
(神界が意図的に消した記録がある)
(その記録の中に、何がある)
(……私は、知らなければならない)
エリュシアは写本を閉じた。
それを、机の引き出しの奥にしまった。
通知に向かって、短く返信した。
『確認しました。処理します』
送信した。
嘘ではなかった。処理した。ただ、神界が期待した方向には処理しなかった。
それだけだった。
(……初めてです)
(書類を、隠しました)
(規定に反しました)
(でも)
(この方向に、正しいことがある気がします)
(田中さんが「正しかったからやった」と言っていました)
(私も、今、正しいと思っています)
(声には、出しませんが)
******
夜、田中が宿の廊下でエリュシアとすれ違った。
田中が立ち止まった。
エリュシアも立ち止まった。
「何か隠したな」と田中が言った。
廊下に、その言葉だけが残った。
エリュシアが田中を見た。どこまで気づいているのか、その目からは読めなかった。
「……何でもありません」
田中が少しだけエリュシアを見た。二秒か、三秒か、それだけの間があった。
「そうか」
それだけ言って、前を向いて歩いていった。
振り返らなかった。追及もしなかった。それ以上、何も言わなかった。
エリュシアが廊下に立ったまま、田中の背中が見えなくなるまで見ていた。
(……何も言いませんでした)
(聞きませんでした)
(ただ「そうか」と言って、前を向いた)
(この方は)
(……この方は、私を信じているんでしょうか)
(それとも)
(単に、私が判断することだと思っているんでしょうか)
(どちらでも、構いません)
(どちらでも、同じことです)
(……やります)
廊下が静かだった。どこかの部屋でグラが「グゥ」と鳴いた。
******
その夜、田中が命名をした。
唐突だった。
夕食の後、カーヴェが茶を飲んでいる横で、田中が一度だけ見て言った。
「PCエンジンちゃんだ」
カーヴェが止まった。
「……何ですか、今」
「性能はいい。でも普及しなかった。もったいない。NECとハドソンが作ったゲーム機だ。1987年。良いものを作ったが、時代と噛み合わなかった」
「……それが私?」
「そうだ」
カーヴェがエリュシアを見た。エリュシアが前を向いた。
「……エリュシア、これは褒めてるの?」
「最大級の敬意だそうです」
「そうなの」
「そうだそうです」
「なるほど」
カーヴェが少し考えてから、田中に言った。「まあ、受け取っておく」
「よし」
エリュシアが内心だけで呟いた。
(PCエンジンちゃんも「まあ」で折れました)
(この宿で「まあ」と言った人間は、次の話から全員働いています)
(カーヴェも、そうなるんでしょうか)
(なるんでしょうね)
(というかどう考えてもPCエンジンちゃん、のほうが長いんですが......)
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**その頃、神界では――**
ウルダが通知への返信を受け取った。
『確認しました。処理します』
「……処理、とは」
「写本を送付することかと思われますが」と部下が言った。
「届いていますか」
「……届いていません」
ウルダが長い沈黙の後、目を閉じた。
「……エリュシアは、今、何をしていますか」
「調査を、続けているようです」
また沈黙があった。今度は少し長かった。
「……寛大に」とウルダが言った。「見守ります」
「寛大です」
部下が記録した。「本日:一回。声が、いつもより少し小さかった」
**神界業務日報 第28回**
本日の特記事項。
写本の調査を進めました。
削除が始まったのは二十三年前からと判明しました。
神界から通知が来ました。「規定外につき中断せよ」とのことでした。
「処理します」と返信しました。
処理しました。
書類を、隠しました。初めてです。
廊下で「何か隠したな」と言われました。「何でもありません」と答えました。「そうか」と言われました。
それだけでした。
それだけで、十分でした。
理由は、書けません。
以上です。
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**魔王の家計簿 第28回**
本日の収支:変動なし。
エリュシアの顔が、夕方から少し違った。何かを決めた顔だった。千年生きた我でも、そういう顔の意味はわかる。
PCエンジンちゃんという命名が出た。カーヴェが「まあ」で折れた。これで全員「まあ」か「わかりました」になった。田中の周りはそうなる。
アルスの膝が心配だ。目の下にクマができている。ゾルグに似てきた。悪いことではない。
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**アルス修行日誌 第4回**
今日は膝が痛くて兎跳びができませんでした。
腕立てをしていました。
師匠が「今日は腕立てでいい」と言いました。
なぜか嬉しかったです。膝が痛いのに。
魔王様に「ゾルグに似てきた」と言われました。
使命感だけで動いている顔、だそうです。
それでいい、と言われました。
明日も腕立てします。膝が治ったらまた兎跳びします。




