「800年の記録だ」
古木の森へ向かう街道は、王都を出て半日ほどの道のりだった。
朝のうちはまだ空気が冷たく、石畳の上に薄く霧が残っていた。一行が並んで歩く中、後方から規則正しい「ぴょん、ぴょん、ぴょん」という音が続いていた。
アルスが今度はなぜか兎跳びをしていた。
両手を頭の後ろで組んで、膝を揃えてひたすら跳び続けている。表情は真剣そのものだった。
「……なぜ兎跳びをしているのですか」とエリュシアが後ろを振り返りながら言った。
「師匠に言われました!!」
「何と言われたんですか」
「根性と筋肉は正義だ。裏切らない、と!!」
「……それで兎跳びになったんですか」
「腹筋のあとはスクワット、スクワットのあとは兎跳びです!! 段階的強化です!!」
田中が前を向いたまま答えた。
「昭和の部活では基本だ。常識だろうが」
「現代では膝に悪いと言われているのですが」とエリュシアが言いかけた。
「そこは根性でカバーしろ」
「根性で膝はカバーできませんよ!!」
(でもなぜか、アルスくんは納得しています)
(毎回そうです)
(この方の言葉には何か特殊な説得力があります)
(理由はわかりません)
カーヴェが横を歩きながら、手帳に何かを書いていた。
「……記録してるんですか」とエリュシアが言った。
「面白いから」
「何が面白いんですか」
「全員が従ってるところ」
エリュシアの声が一段下がった。
「私は従っていません」
「今も一緒に歩いてるけど」
「それは……Aランククエストがあるので、業務上の——」
「なるほど」
「カーヴェ」
「はい」
「その『なるほど』は禁止です」
「なぜ」
「なんとなくです」
ネネが前を歩きながら、小さく笑った。グラが頭の上で「グゥ」と鳴いた。
******
森の手前に差し掛かると、グラの様子が変わった。
田中の肩の上でそわそわし始め、首をあちこちに向けて、小さな鳴き声を繰り返した。
「どうした」と田中が言った。
グラが「グゥ、グゥ」と答えた。
「何かいるな」
「……我にも感じる」とネネが立ち止まった。「古い魔力の気配だ。この森そのものに、何かが宿っている」
アルスが兎跳びを止めて立ち上がった。膝を押さえていた。
「師匠、前方の気配は——」
「敵じゃない」と田中。「違う種類だ」
「どう違うんですか」
「古い。敵意がない。ただ、ずっとそこにいる感じだ」
カーヴェが手帳を閉じた。目が少し細くなっていた。
「……神界の記録にあった魔力の型と一致する。ここで間違いない」
エリュシアが頷いた。自分でも気づかないうちに、一歩前に出ていた。
******
森の奥、大樹の根元に、無数の記録帳が積み上げられていた。
高さは田中の背丈を超えていた。色も形も年代もばらばらで、最も古いものは表紙が半ば崩れかけている。それでも一冊も倒れていなかった。
整然と、しかし生き物のように積まれていた。
その前に、一人のエルフが座っていた。
外見は二十代の女性のように見えた。
深緑と金の混じった長髪を丁寧に結い上げ、琥珀色の目が静かにこちらを見ている。
古来の装束は色が褪せていたが、それは汚れているのではなく、ただ長い時間を纏っているように見えた。
立ち上がった時の所作が、二十代のそれではなかった。
視線が一行を流れ、田中のところで止まる。
「……汝が、勇者・田中剛か」
「違う。俺は田橋名人だ。お前が記録者か」
「左様。私はイース・リーセル・ア・ヴァン・フィアルナ。八百年、この森で記録をつけてきた者だ。汝に伝えるべきことが——」
「長い」
イースの言葉が止まった。
「アドルだ」
「……私の名は——」
「アドルだ。削れ」
「八百年続く良作の主人公だ。赤髪の冒険者で、行く先々で遺跡に突っ込む。ファルコムが1987年に作ったアクションRPGで、今もシリーズが続いている。名作は時代を選ばん」
イースが少しの間、田中を見ていた。
「えー……私の髪は緑ですが」
「細かいことは気にするな」
「汝の言う『アドル』とは、どういう意味を持つのですか」
「最大級の敬意だ」
また少しの間があった。
イースの目が、わずかに和らいだ。
「……わかりました。アドルと呼ばれましょう。そしてあなたは勇者田中ではなく、田橋名人ですね」
「そうだ」「名人だ。習慣で強くなった者の称号だ。本物には恐れ多いので一字変えた」
アドル内心:(……800年記録してきたが、この種の答えは初めてだ)
エリュシアが内心で静かに処理した。
(いつもどおり命名が完了しました。八百年生きた記録者が、十秒で折れました。記録します。あと田橋名人ってなんですか一体)
カーヴェが横で「なるほど」と呟いた。
エリュシアが何も言わなかった。
(今回は言いません。私も同じだったので)
******
アドルが記録帳の説明を始めようとした時、グラが田中の肩から飛んだ。
まっすぐアドルに向かって飛んで、その腕に止まった。
一同が少し驚く中、アドルだけが動じなかった。ただ静かにグラを見下ろした。
「……古木の魔脈に反応した。この種の翼竜は、古い魔力の流れを感じ取る性質がある。滅多に見ない」
グラが「グゥ」と鳴いた。
「……大切にしなさい」とアドルが言った。
「資産だ」と田中が言った。
アドルが田中を見た。何かを言いかけて、やめた。
(資産。この方はそういう言い方をする人らしい)
(……ふむ)
グラがアドルの腕の上で落ち着いて目を細めた。ネネが珍しくグラから目を離さずに見ていた。
「……グラが懐いている」とネネが静かに言った。
「そうだな」
「懐かれた人間は、信用していい人間だ。我の経験則だ」
アドルがネネを見た。それからまた田中を見た。
「……汝の連れは、変わっている」
「そうだな」
「褒めているのかどうか、わからないのですが」とエリュシアが言った。
「褒めています」とアドルが答えた。
******
記録帳の話に入る前に、アドルが言った。
「この森での儀式として、八百年続く清祓いの作法があります。七時間ほどかかりますが——」
「根拠はあるか」
アドルが止まった。
「……伝統として、代々——」
「伝統と習慣は違う。根拠のある部分を残して削れ。何時間削れる」
沈黙。
アドルの目が少し遠くなった。何かを計算しているような間があった。
「……三時間は、削れます」
「削れるのか」
「……八百年、気づきませんでした」
「気づいた今から削れ。常識だろうが」
アルスが「師匠!!儀式が四時間削れました!!」と言いながら膝を押さえた。
「師匠、少し膝が——」
「根性だ」
「根性で膝は——」
「次は腕立て千回だ」
「(なぜ膝が痛いあとに腕立てが来るんですか)(でもなぜか納得しています)(やりますっていってはじめてまますし......)」
アドルがその様子を静かに見ていた。
(……八百年で、初めて見る光景だ)
(不思議と、嫌ではない)
******
儀式を二時間に短縮し終えた後、アドルが記録帳の棚の奥から一冊を取り出した。
他の記録帳より少し小さく、表紙に文字が書いてあった。
日本語だった。
田中が受け取った。
ページをめくると、同じ文章が繰り返されていた。
「今日も飯を食った。生きている」
また次のページ。
「今日も飯を食った。生きている」
また次のページ。
「今日も飯を食った。生きている」
何十ページも、何百ページも、同じ文章が続いていた。筆跡は変わらなかった。字が乱れることもなかった。ただ、淡々と、毎日書き続けていた。
「この人間は」とアドルが言った。「剣を一生持ちませんでした。この世界に来て、ただ土を耕して、ある年の秋に死にました。神界からは、来てすぐに『使えない』という評価が下されたと、記録にあります」
田中がページをめくり続けていた。
最後のページまで来た。
「今日も飯を食った。生きている。明日もそうだろう」
それで終わっていた。
田中が少しだけ、そのページを見ていた。
「……よくやった」
声には出なかった。
唇が動いただけだった。
エリュシアだけが、横でそれを見ていた。
(……声になりませんでした)
(でも聞こえました)
(二十三年分の記録の中に、同じような夜が何十回もありました)
(この方は、田所一郎という人間を、一度も会ったことがないのに)
(……記録します。絶対に記録します)
カーヴェが何かを言いかけて、止まった。黙って前を向いた。
ネネが田中の横に立った。何も言わなかった。ただ、そこにいた。
******
アドルがもう一冊、記録帳を取り出した。今度は表紙が部分的に変色していて、ページを開くと所々に不自然な空白があった。
「見てください」とアドルが言った。「この記録帳の、ある時期からある時期にかけて——神界に関する記述が、意図的に削除されています」
カーヴェが近づいてページを確認した。しばらく見てから、静かに言った。
「通常の廃棄じゃない。神界の書類消去技術と同じ手法だ。痕跡が綺麗すぎる」
エリュシアが記録帳を受け取った。
ページの空白を指でなぞった。
止まった。
(……この消し方を、知っています)
(私が処理してきた書類の、廃棄記録と同じです)
(誰かが、意図的に消した)
(なぜ)
(何を隠したのですか)
(……これは)
田中がエリュシアを見た。
エリュシアが田中を見た。
「……写本を作ることはできますか」とエリュシアが言った。声が、普段より少し低かった。
「できます。ただ、時間がかかる」とアドルが答えた。
「急いでいただけますか」
「……わかりました」
田中がエリュシアを見たまま、何も言わなかった。
エリュシアが田中を見たまま、何も言わなかった。
(……調べます)
(今度こそ、本当に)
(三回目の『調べます』は、声に出しませんでした)
(でも、今が一番本気です)
******
帰り際、アドルが田中に言った。
「一つ、お願いがあります」
「何だ」
「汝の記録を、私に書かせてください。八百年書き続けてきましたが——今日のような来訪者は、初めてです」
田中が少し止まった。
「好きにしろ」
「ありがとうございます」
「ただし」と田中が言った。「事実だけ書け。余計なことは書くな」
「事実だけを書くことが、私の仕事です」
「ならいい。常識だろうが」
アドルがわずかに目を細めた。
(……八百年、誰かの記録取ることを、こちらから頼んだことはなかった)
(今日、初めて頼んだ)
(この人間は変わっている)
(でも——守れる分は守る、無駄な分は切る、それだけだ、という生き方を)
(私も八百年、そうやってきた)
(……面白い)
グラがアドルの腕から飛んで、田中の肩に戻った。
「グゥ」と鳴いた。
アドルが「また来なさい」と言った。田中が「また来る」と答えた。
それだけだった。
******
帰り道、アルスが少し後れをとっていた。
兎跳びをやめて、普通に歩いていた。それでも少し足を引きずっている。
「アルスくん、膝は大丈夫ですか」とフィルナが心配そうに近づいた。
「大丈夫です!! 師匠に言われた通り、根性でカバーしています!!」
「根性で膝はカバーできないよ〜!!」
「できます!! たぶん!!」
「たぶんなんだ!!!」
田中が振り返らずに言った。
「明日、腹筋千回だ」
「(膝が終わりそうなのに腹筋が来ました)(でも腹筋は膝と関係ありません)(やりすぎです)」
エリュシアが内心で静かに記録した。
(そろそろアルスくんの膝が心配です)
(でもなぜか毎回やり切ります)
(この方に育てられると、そうなるんでしょうか)
(……田中さんに育てられると)
(そうなるんでしょうか)
その考えが、少しだけ温かかった。声には出さなかった。
******
**その頃、神界では――**
ウルダが報告書を受け取った。
「古木の森にて、記録帳の神界関連記述に削除痕跡が発見されました。エリュシアが写本の取得を依頼。現在進行中です」
ウルダが書類を机に置いた。
長い沈黙があった。
「……寛大に、見守ります」
「寛大です」
部下が少し間を置いてから言った。「……ウルダ様、よろしいのですか。削除の件については——」
「見守ります」
もう一度言った。
部下が記録した。「本日:二回。二回目の間に、三秒の沈黙があった」
**※おじさん解説!**
イースとはファルコムが1987年に作ったアクションRPGだ。
主人公の名はアドル・クリスティン。赤髪の冒険者で、行く先々で遺跡に飛び込む。
理由はだいたい「何かあったから」だ。それだけで十分だ。
シリーズは今も続いている。2024年時点でイースXまで出た。
37年間、続いている。名作は時代を選ばん。
兎跳びは昭和の部活の定番だ。現代では膝に悪いとされている。
だが根性と筋肉は裏切らない。これも常識だろうが。
今回はもう一つ。
本文中偽名で名乗った田橋名人→高橋名人について説明する。
ハドソンソフトの広報担当社員・高橋利幸氏が、1985年に「高橋名人」としてデビューした。一秒間に16回ボタンを連射する技術で子供たちの英雄になった。全国を行脚してゲーム大会を開催し、映画にもなった。社員がここまで愛された例は昭和でも珍しい。名人は今も現役だ。
田中剛(四十六歳)は名人に一字足して「田橋名人」と名乗った。恐れ多いからだ。これが最大の敬意である。常識だろうが。
******
**神界業務日報 第27回**
本日の特記事項。
記録帳の削除痕跡を確認しました。
私が処理してきた書類と、同じ消し方でした。
写本の取得を依頼しました。
田中さんが記録帳を読んで黙っていました。声には出しませんでしたが、唇が動いていました。
私には聞こえました。
書く欄がありません。
以上です。
******
**魔王の家計簿 第27回**
本日の収支:Aランククエスト調査完了。素材回収あり。詳細は次回。
グラがアドルさんに懐いた。
懐かれた人間は信用していい、というのは我の経験則だ。
アドルさんは信用できると思う。
田中が記録帳を読んで黙っていた。
何と書いてあったかは聞かなかった。
でも、顔は見た。
どの項目にも書けないが、書いた。
アルスの膝が心配だ。
******
**イースの記録帳 第1回**
本日の来訪者:人間の勇者、田中剛。
八百年の知識を『在庫』と言った。
儀式を四時間削られた。
正しかった。
翼竜が懐いた。名前はグラだそうだ。
記録帳を渡した。彼は静かに読んでいた。最後のページで、声に出さない言葉を言っていた。
私には聞こえた。
今日は記録するのが難しい。
翼竜は元気だった。それだけ書く。




