「ゼフィーラが動く」
魔王城の朝は、静かだった。
魔王ネネが城を離れてからかなりの日が経つ。
廊下を行き来する使用人の数も減り、大広間にはかつての威圧感がない。
変わらないのは、執務室に積まれた書類の山だけだった。
「……二十八本」
ゼフィーラは手元の羊皮紙に数字を書き込み、顔を上げた。
視線の先には大広間の燭台。
かつてネネが儀式的に命じた、「威厳のためにすべて灯せ」——城の夜を彩っていた百本の蝋燭が、今では週に何本消えているか誰も把握していなかった。
しかし、ゼフィーラは把握した。そして記録した。
先週は三十一本。今週は二十八本。来週には二十五本を切る予定だ。
(これは魔王様の固定費削減令に従っているだけだ。自分が勝手に動いているわけではない。
断じて、そうではない。)
ゼフィーラは眉間に力を込めて、次の書類に視線を落とした。
******
書類の精査は、朝から昼をまたいで夕刻まで続いた。
使用人の人件費、魔道具の維持費、年に一度の城壁補修費、各地の魔物管理拠点への送金記録——それらを一枚一枚洗い直していくと、どこかで必ず「理由のない支出」が顔を出した。
誰かが惰性で承認し続けた結果が、どれほどの額になっているか。
ゼフィーラは知らなかった。知ろうとしなかったと言っていい。
「……魔王様の固定費削減令がなければ、アタシも見なかっただろうな」
独り言は言わない主義だった。それでも今日は、声が出た。
そのとき——書類の束の中に、指先が引っかかった。
他とは明らかに紙質の違う文書が、何枚か無造作に挟まっていた。表紙の封印を見て、ゼフィーラの目が止まる。魔王軍の紋章ではない。金色の——見慣れない刻印だった。
「……何だ、これは」
読む。
二行目まで読んだところで、ゼフィーラは文書を机の上に置いた。手が震えていないことをひとつ確認してから、もう一度、最初から読んだ。
内容は簡潔だった。定期的に届いていたことを示す日付がある。最古のものは三百年前。直近は先月。宛先は魔王城・管轄書類係。発行元は——神界行政局、中枢管理部。
「……妨害書類」
声にすると、よりはっきりした。
文書の中身は、魔王軍の行動に対して「自然な障害」を発生させるための指示書だった。特定の補給路に盗賊を誘導する手配。勧誘に来た人間の冒険者への「警告文」の配布。そして何より——『魔王軍が人間側と和解しようとする兆候があった場合、即座に妨害行動を実行するよう指示する』という一文。
ゼフィーラは三秒、沈黙した。
「……魔王様は、知らなかったはずだ」
知っていたなら、何か言っていた。千年来の忠臣として断言できる。ネネはこんな書類の存在など知らない。もし知っていたなら、財布の話より先にここへ怒鳴り込んできているはずだ。
では誰が受け取っていたのか。誰が処理していたのか。
書類係の当番記録を引っ張り出して、名前をひとつ確認した。六十年前に魔王城を離れた人物だった。それ以前の担当者をさかのぼれば、全員がすでにこの城にいない。管理の空白が、そのまま書類を眠らせていた。
「……神界が、この世界に手を入れていた」
それだけではない——とゼフィーラの頭は速く動いた。勇者の召喚も、神界が行う。魔王軍への妨害も、神界が指示する。表向きは「均衡を保つ仕組み」として機能していたはずのものが、実態は——
「……人為的に、戦争を維持していた」
夕暮れの執務室に、その声だけが落ちた。
******
「ゾルグ」
廊下に声をかけると、三秒後に足音が響いてきた。
「は、はいっ! ゼフィーラ様! 何かございましたでしょうか!! ……あ、蝋燭がまた減りましたね」
「二十八本だ。読め」
文書を差し出すと、ゾルグは背筋を伸ばして受け取り、目を通した。五行で顔色が変わり、十行で手が微かに震えた。
「……ゼフィーラ様。これは」
「知っていたか」
「知りませんでした。断言できます。私は奪還任務に全力を注いでいたので、書類係の管轄にまで——いえ、言い訳です。知りませんでした」
「そうか」
ゾルグは文書をゆっくり机に戻した。
「では——魔王様を取り戻す、絶好の機会では! 私が証拠を携えて王都へ!! そして颯爽と登場し、魔王様が感動して魔王城へご帰還——」
「行くのはアタシさ」
「あ」
「お前は城を守れ」
ゾルグが消沈した。見るからに気力が抜けた顔をしている。
「……それだけですか」
「それだけだ」
沈黙。
「……私も参ります」
「邪魔はするな」
「邪魔などっ——します、もしかしたら——しません!」
ゼフィーラは立ち上がり、問題の文書を丁寧に封筒に収めた。
「王都に着いたら、まず魔王様に見せる。次に——」
少し間があった。
「……勇者に見せる」
ゾルグが目を見開いた。
「……え、敵では?」
「敵かどうかより、書類が読めるかどうかが今は重要だ」
「なるほど……」
「わかったなら行くぞ」
「はっ、はい! 支度をすぐに!!」
******
城の玄関に出ると、ゾルグが大きな鞄を二つ抱えて立っていた。
ゼフィーラは三秒、その鞄を見た。
「何だ、その大きな荷物は」
「旅の準備です! 着替え、食料、予備の鎧、予備の鎧の予備。そして奪還計画書の第七稿から第十一稿まで——」
「削れ」
「え」
「半分だ。奪還計画書は全部置いていけ」
「全部ですか!!」
「今回の目的は書類の共有だ。奪還ではない」
「でも、機会があれば——」
「ない」
ゾルグが大きな鞄をひとつ置いた。それでもまだ大きい。
ゼフィーラの視線が動く。
「まだ多い」
「え、でも——」
「奪還計画書は?」
「……今、底に四冊ほど」
「出せ」
ゾルグが鞄の底から四冊の計画書を取り出した。ゼフィーラが受け取って机の上に置いた。
「帰ったら読む。今は不要だ」
「……わかりました」
ゾルグの鞄が、ようやく適切な大きさになった。
「行くぞ」
「はいっ! ——あの、ゼフィーラ様」
「何だ」
ゾルグが少し間を置いた。
「……魔王様は、ご無事ですか」
ゼフィーラは歩き出しながら答えた。
「あの勇者のパーティに何かあれば、アタシらが聞く前に王都中の話題になっている。今のところ何も届いていない」
「……それは、つまり」
「無事だということだ。黙ってついてきな」
ゾルグが頷いて、一歩遅れてついていった。
城の玄関を出ると、夕日が石壁を染めている。ゼフィーラの歩幅は一定で、その手には分厚い封筒が一つある。
城の蝋燭が——風もないのに一本、揺れた。
******
**その頃、神界では――**
ウルダは書類の束を前にして、羽根ペンを宙に止めた。
エリュシアの名前が記されている欄に、「未処理」という文字が並んでいる。今日で四日目だ。
「……エリュシア」
誰もいない部屋でひとつ呟いて、ウルダは窓の外を見た。神界の白い回廊に、今日も書類が運ばれてくる。問題なく動いている。いつも通りだ。
いつも通りのはずだ。
「寛大です」
ペンを持ち直して、書類にサインをした。
「……本当に」
一秒置いて、静かに言い添えた。
羽根ペンが、止まった。ウルダはもう一枚、書類を取り上げた。魔王城からの定期報告書の控えだ——欄が、一か所だけ空白になっている。
「……ふむ」
窓の外で、白い回廊が静かに続いていた。
**※おじさん解説!固定費削減**
固定費というのは、売上に関係なく毎月かかる費用のことだ。
家賃、光熱費、人件費——これが積み上がると、何もしていなくても赤字になる。
会社が潰れる理由の半分は、固定費を誰も見ていなかったことだ。
蝋燭の本数を数えるのは、そういうことだ。
誰かがやらなければ、誰もやらない。常識だろうが。
**※神界業務日報 第41回**
本日の業務:通常処理、継続中。
書類調査:継続中です。進捗については書く欄がありません。
追記:王都の宿屋の朝食が今日も安定していました。
勇者は「まあまあだ」と言っていました。
追記2:「まあまあ」は評価の上位だと最近わかりました。
なぜ最近までわかりませんでしたか。
46年分記録していたのに。
******
**※魔王の家計簿 第41回**
今日の支出:宿代35G・食事14G・グラの餌0G(「経費ゼロの資産だ」と田中が言った)。
ゼフィーラが動いたと思う。なんとなくそんな気がした。
理由はわからない。でも書いた。
追記:ゼフィーラは「認めたわけではない」とよく言う。
田中も「そうか」とよく言う。
なんか、似ている。
******
**※第一席次・ゼフィーラの業務報告 第1回**
本日の業務:固定費削減令に基づく書類精査。
特記事項:神界発行文書を複数発見。内容は精査継続中。
処理方針:王都への移送を決定。現場確認が必要と判断した。
蝋燭の本数:現在28本。目標25本。削減率75%達成見込み。
追記:これは合流ではない。独立した判断による移送任務である。
追記2:ゾルグが同行する。荷物が多すぎた。削らせた。
追記3:計画書を四冊没収した。帰ったら読む。内容は期待していない。




