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協定の代償  作者: 八雲 海


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第七章 ワシントンへ

二年が経った。

 石川宗一は二十六歳になっていた。

 髪が少し伸びた。スーツの着こなしが板についた。霞が関の廊下を歩くとき、もう足音が迷わない。省内の人間の顔と名前が、ほぼ一致するようになった。

 変わったのは外側だけではなかった。

 会議で口を開く前に、一拍置くようになった。言いたいことを、すぐに言わなくなった。

 それが成長なのか、それとも別の何かなのか——石川には分からなかった。

 「石川くん、少しいいか」

 桐島課長に呼ばれたのは、十一月の終わりだった。

 課長室は小さかった。机と椅子と、書類棚。窓から霞が関の通りが見える。銀杏が黄色く染まっていた。

 「座りなさい」

 石川は椅子に座った。

 桐島は机の上で手を組んだ。

 「異動の話がある」

 石川は背筋が伸びた。

 「どちらですか」

 「在米日本大使館の経済部だ。ワシントン勤務になる」

 石川は少し黙った。

 ワシントン。

 協定交渉でずっとファクスが来ていた場所。カラハンと会議をした相手側の街。

 「なぜ私ですか」

 「君はこの二年、協定の実務を全部やった。向こう側と話ができる人間が必要だ」

 「向こう側と、話をする仕事ですか」

 「交渉の仕事だ」桐島は言った。「ただ今度は、日本側の立場で交渉する」

 石川は窓の外を見た。銀杏の葉が風に揺れている。

 「断ることはできますか」

 桐島は少し間を置いた。

 「できる。ただ、君にとって意味のある仕事だと思っている。私はそう判断した」

 石川は桐島の顔を見た。

 感情が出ない顔だ。入省以来、ずっとそうだった。でも二年間見てきて、石川には分かるようになっていた。この人は感情を隠しているのではなく、言葉を極限まで削っている。削った言葉の裏に、言いたいことがある。

 意味のある仕事だと思っている。

 それは——課長なりの、応援だった。

 「考えさせてください」

 「一週間でいい」

 石川は頭を下げて、課長室を出た。

 *

 その夜、三田係長が声をかけてきた。

 「聞いた。ワシントンの話」

 「早いですね」

 「狭い職場だから」三田は苦笑した。「飯、食いに行くか」

 二人で省の近くの小さな居酒屋に入った。

 カウンターに並んで座った。三田は生ビールを頼んだ。石川も同じものを頼んだ。

 乾杯もせずに、二人で飲んだ。

 「行くべきですかね」石川は言った。

 「どう思う、自分では」

 「分からないから聞いています」

 三田は笑った。

 「正直だな、相変わらず」

 三田はビールを一口飲んで、カウンターの木目を見た。

 「俺がワシントンに行ったのは、入省七年目だった」

 石川は顔を上げた。

 「係長も、向こうにいたんですか」

 「三年いた。君と同じ、大使館の経済部だ」

 「それは——知りませんでした」

 「言ってなかったから」三田は静かに言った。

 「俺がいた頃も、日米の摩擦は続いていた。鉄鋼の話だったけど、構造は同じだ。向こうの言い分を聞いて、こちらの立場を説明して、落としどころを探す。毎日それをやった」

 「それで」

 「ある日、気づいた」三田はビールのグラスを回した。「俺は日本のために交渉しているのか、それともアメリカとの関係を維持するために交渉しているのか、分からなくなった」

 石川は息を吸った。

 「それは」

 「怖かった」三田は言った。

 居酒屋の中が、賑やかだった。サラリーマンたちの声が飛び交っている。その中で、二人のカウンターだけが静かだった。

 「係長は、どうしたんですか」

 「続けた」三田は言った。「答えが出なくても、書類は積まれる。会議は始まる。続けていたら、三年が終わった」

 「答えは出ましたか」

 三田はしばらく黙った。

 「出なかった」

 「それで」

 「それでいいと思うようになった」三田はグラスを置いた。

 石川は黙って聞いていた。

 「君はどうだ」三田が聞いた。「この二年で、答えは出たか。自分が何のためにここにいるのか」

 石川は考えた。

 正直に言えば——出ていない。

 入省のとき持っていた答えは、最初の夏に揺らいだ。協定の書類に判を押した日に、さらに揺らいだ。会議で口を開いた日も、カラハンと向き合った日も、宮下と喫茶店で向き合った日も、揺らぎ続けた。

 「出ていません」石川は言った。「でも」

 「でも?」

 「辞めようとは思わなかった。一度も」

 三田は石川を見た。

 「なぜだ」

 石川は少し考えた。

 「三田係長が、辞めなかったからだと思います」

 三田は何も言わなかった。

 でもグラスを持つ手が、少し止まった。

 二人でビールを飲んだ。居酒屋の賑やかさが、遠くなった気がした。

 「行け」三田がやがて言った。

 「ワシントンへ?」

 「行って、向こう側を見てこい」

 石川はグラスを置いた。

 「係長は」石川は言った。「後悔していますか。この仕事を続けたことを」

 三田は少し間を置いた。

 三田は窓の外を見た。霞が関の夜の光が、遠くに見えた。

 「していない」

 短く言った。

 「少なくとも、今夜は」

 石川は頷いた。

 それで十分だった。

 *

 一週間後、石川は桐島課長の部屋を訪ねた。

 「行きます」

 桐島は頷いた。それだけだった。

 課長室を出て、廊下を歩いた。

 窓から、冬の霞が関が見えた。銀杏はもう葉を落としていた。枝だけになった木が、青い空に伸びている。

 石川は立ち止まって、その木を見た。

 答えは出ていない。

 出ていないまま、ワシントンに行く。

 三田係長が言った言葉が、耳に残っていた。

 行って、向こう側を見てこい。

 石川は歩き出した。

 廊下の先に、書類の山が待っている。

 今日もまだ、仕事がある。

第七章 完


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