エピローグ その後
一九八六年に始まった日米半導体をめぐる取極は、一九九一年に改定され、九六年に終了した。
この十年の間に、日本の半導体産業のアメリカ市場シェアは大きく低下した。その一方で、韓国の半導体メーカーは急速に力をつけていった。協定とは無関係に、着実に地歩を固めていった企業たちだった。
アメリカの半導体産業が復活したかといえば、それも一概には言えなかった。市場は複雑に動く。誰かが得をして、誰かが損をする。その因果関係は、単純ではなかった。
石川宗一はワシントンに三年いた。
向こうで何度も迷った。三田係長の言った通りだった。答えは出なかった。でも丁寧にやった。それだけだった。
帰国後、石川は産業政策の部署に異動した。
半導体の仕事からは離れた。でも同じ問いを持ち続けた。国のために働くとはどういうことか。正しくないと分かっていても続けることに、意味はあるのか。
答えは、まだ出ていない。
三田誠一は石川がワシントンから戻った年、本省を離れ、地方の出先機関へ異動した。
送別会の席で、三田は短いスピーチをした。
「長い間、答えの出ない問いを抱えて仕事をしてきました。答えは出ませんでした。でも、出なくてよかったと思っています。答えが出た瞬間に、人間は考えるのをやめるから」
石川はその言葉を、手帳に書いた。
今も、持ち歩いている。
桐島課長は次官まで昇進した。退職後、経済関係の審議会の委員になった。その審議会で、デジタル産業の振興について発言しているという記事を、石川は新聞で読んだ。
ジェフ・カラハンとは、その後も何度か会議で顔を合わせた。
あるとき、会議の後で二人きりになった。カラハンが言った。
「石川さん、あの協定は正しかったと思いますか」
カラハンはしばらく黙った後、自分でその問いに答えるように続けた。
「私が答えていい質問じゃない」
石川は何も言わなかった。
その帰り道、石川は宮下のことを思い出していた。
分かり合えることと、失われたものが戻ることは、別だった。
宮下がその後どうなったのか、石川は知らない。人づてに、川崎の工場が数年前に閉鎖されたと聞いた。それだけだった。連絡先も、消息も、分からないままだった。
三田の言葉は、手帳に書いた。
宮下の言葉は、書かなかった。
迷うだけで、何かした気になるのは楽ですよ、たぶん。
書かなかった言葉の方を、石川は三十年経った今も、一番よく覚えている。
エピローグ 完
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