第六章 内側にいる人間
年が明けて、石川は初めて会議で口を開いた。
月次の報告会議だった。課長の桐島、係長の三田、それから各担当が集まる。石川は末席に座って、いつも議事録を取るだけだった。
その日も、そのつもりだった。
「韓国の動向については、引き続き注視する方向で」
桐島がそう言って、次の議題に移ろうとした瞬間、石川は手を挙げていた。
自分でも気づかなかった。気づいたら、手が上がっていた。
会議室の視線が集まった。
「石川くん」桐島が言った。「何か」
喉が乾いた。でも引っ込めることはできなかった。
「注視するだけでいいんでしょうか」
静かになった。
「韓国メーカーのシェアは、先月比で三ポイント上がっています。このペースが続けば、年内にアメリカ市場での日本製品のシェアを逆転する可能性があります。協定の目的はアメリカ企業の保護だったはずですが、実際に利益を得ているのは韓国です。この点について、アメリカ側と協議する余地はないんでしょうか」
言い終えた。
桐島は石川を見ていた。感情が読めない顔だった。
三田係長が手元の資料を見ていた。顔を上げなかった。
他の担当たちは、視線を微妙に外していた。
沈黙が十秒ほど続いた。
「石川くん」桐島が口を開いた。「その分析は正しい」
石川は少し驚いた。
「数字も、論理も、正しい。アメリカ側も同じデータを持っている。向こうも分かっている」
「では」
「分かっていても、協定は協定だ」桐島は静かに言った。「我々が結んだ約束を、数ヶ月で覆すことはできない。それは交渉相手への背信になる」
「でも日本の産業が——」
「石川くん」
桐島の声が、一段低くなった。
「君の言いたいことは分かる。だが今日の会議で必要なのは問題提起ではなく、現状報告だ。続けていいか」
石川は口を閉じた。
「はい。失礼しました」
議事録を取る手が、少し震えていた。
*
会議が終わって、廊下に出た瞬間、三田係長が隣に来た。
「ちょっといいか」
給湯室に連れて行かれた。二人きりになった。
「怒られますか」石川は言った。
「怒らない」三田はお茶を入れながら言った。「よく言った」
石川は少し拍子抜けした。
「でも桐島課長は」
「桐島さんも、同じことを思っている」
「思っているなら——」
「思っていても、言えない立場というのがある」三田は湯呑を石川に渡した。「課長は対外的な約束を守る責任がある。それを自分で崩すわけにいかない。でも部下が言うのは別の話だ」
「それは」石川は考えた。「わざと言わせたんですか」
三田は少し笑った。
「さあ、どうだろうな」
はぐらかされた。でもその笑い方が、否定ではない気がした。
石川はお茶を飲んだ。温かかった。
「係長は」石川は言った。「最初からそういう人だったんですか」
「どういう人だ」
「言いたいことを飲み込んで、それでも内側にいる人」
三田は湯呑を持ったまま、窓の外を見た。給湯室の小さな窓から、霞が関の空が見えた。
「最初は違った」
静かな声だった。
「俺も君くらいの頃は、おかしいと思ったら口に出していた。会議でも、上司にも」
「それで」
「変わらなかった」三田は言った。「何も変わらなかった。でも辞めなかった。辞める理由が、なかった」
「理由が、なかった?」
「ここにいる意味を、まだ信じていたから」
石川は三田の横顔を見た。
疲れた顔だ。でも今日は、いつもより少し違って見えた。疲れの奥に、何か固いものがある。長い時間をかけて、折れなかったものの形をしている。
「係長は今も、信じていますか」
三田はしばらく黙った。
「惰性かもしれない」やがて言った。「でも惰性でも、続けることに意味があると思っている」
「なぜですか」
「辞めた人間に、文句を言う権利はない」
短い言葉だった。
石川はその言葉を、すぐには返せなかった。
給湯室に、お茶の香りが漂っていた。
*
三月の終わり、ワシントンから速報が入った。
レーガン政権が、対日制裁の方針を発表した。
四月十七日、それは実行された。日本製のカラーテレビや小型コンピューターなどを対象に、最大三億ドル相当、一〇〇パーセントの関税が課された。
理由は、協定の不履行だった。第三国市場での不当廉売がまだ十分に防がれていない。外国製半導体の日本市場へのアクセスも、改善が遅い。アメリカ側はそう主張した。
石川はその報を、朝の新聞で読んだ。
しばらく、文字が頭に入ってこなかった。
価格を監視した。基準に沿うようメーカーを指導した。二〇パーセントという数字も、いずれ実現に近づくよう努めると答えた。何度も夜中まで資料を作り、判を押し、頭を下げた。
それでも、足りないと言われた。
石川は新聞を持ったまま、三田係長の机の前に立った。
「これ」
三田も新聞を見ていた。
「読んだ」
「協定を結びました。値上げもしました。それでも制裁ですか」
三田は答えなかった。
「係長」石川は言った。「内側にいる人間が、少しでもまともにやる。そう言われて、僕はやってきました。でもまともにやった結果がこれなら——」
「なら、何だ」
石川は言葉に詰まった。
三田は新聞を畳んだ。
「交渉は、一度譲ったら終わりじゃない」静かな声だった。「相手が足りないと思えば、次が来る」
「それを、最初から知っていたんですか」
「知っていたわけじゃない」三田は言った。「でも、驚いてもいない」
石川は自分の机に戻った。
書類の山は、今日も変わらずそこにあった。
でも今日は、その山を見る目が違った。
どれだけ丁寧にやっても、どれだけ譲っても、それで終わるとは限らない。
その事実だけが、はっきりと残った。
*
その年の後半、石川に新しい仕事が加わった。
アメリカ側との実務者協議に、同席することになった。
相手はワシントンから来たUSTRの担当官だった。三十代、スーツ、英語が速い。ジェフ・カラハンという名前だった。
会議室で向かい合って、石川は資料を広げた。
カラハンは日本語が少し話せた。でも会議は英語で進んだ。通訳が隣にいた。
価格監視の進捗確認。各社の輸出データの照合。来期の基準価格の設定。
淡々と進んだ。
会議の終わり際、カラハンが資料から目を上げた。
「石川さん、いつから担当ですか」
通訳が日本語にした。
「四月からです」石川は答えた。
「最初からこの案件を?」
「はい」
カラハンは少し考えるような顔をした。
「大変でしたね」
石川は何と返せばいいか分からなかった。
大変でしたね、とアメリカ側の担当官に言われる。この協定を主導した側の人間に。
「いえ」石川は言った。「仕事ですので」
カラハンは頷いた。
何かを言いかけて、やめた。
会議が終わった。
廊下に出て、石川は壁にもたれた。
大変でしたね。
その言葉が、頭から離れなかった。
同情だったのか。それとも——向こうも、何かを感じていたのか。
分からなかった。
でも石川は思った。
向こう側にも、割り切れない人間がいる。
それが——少しだけ、救いだった。
救いで、あると同時に——一番やりきれなかった。
第六章 完




