第五章 誰のための協定か
その年の冬が近づいた頃、最初の影響が出始めた。
国内の半導体メーカーが、対米輸出価格を引き上げ始めた。協定の条件に従って、政府が設定した基準価格に合わせるためだ。
石川の元に、業界団体からのレポートが届いた。
読んで、数字を確認して、要約した。
価格引き上げによって、日本製半導体のアメリカ市場での競争力が低下し始めている。一部の顧客が韓国製品に切り替えを検討している——そう書いてあった。
石川はその一文を、三度読んだ。
韓国製品に切り替え。
石川には、そう見えた。
日本が値段を上げる。その隙間に、韓国が入ってくる。アメリカでもなく、日本でもなく。
この協定は、誰のためのものだったのか。
石川は要約を書き終えて、三田係長の机に置いた。
「係長」
「なんだ」
「韓国の件、読みましたか」
三田はレポートに目を落とした。しばらく黙っていた。
「読んだ」
「これは」石川は言葉を選んだ。「想定していたんですか」
三田は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
石川は自分の席に戻った。
窓の外に、冬の乾いた空が広がっていた。
日本の産業で世界と戦いたい。
その言葉が、今日は遠かった。
戦っているのか、自分は。
それとも——
キーボードを叩く音が、静かな執務室に響いた。
石川は画面を見たまま、その問いを飲み込んだ。
飲み込んで、次の書類を開いた。
*
その週の終わり、石川は本省の受付から内線を受けた。
「石川さんに、北斗電機の宮下さんという方が」
石川は少し驚いた。名前に覚えがあった。数か月前のヒアリングで、「受け入れがたい」と言った男だ。
受付ロビーに降りると、宮下がいた。スーツは変わらないが、以前より痩せて見えた。
「お時間、いいですか」宮下は言った。
「はい」
近くの喫茶店に入った。宮下はコーヒーを頼んで、しばらく黙っていた。
「石川さん、今年でうちの部署がどうなったか、ご存知ですか」
石川は首を振った。
「川崎の増設計画、止まりました」
宮下は淡々と言った。感情を抑えているというより、感情を使い切った後の声だった。
「協定前は、来年には第二工場を作る話があった。三百人、雇う予定でした。今年、白紙になりました」
石川は何も言えなかった。
「値段を上げたら、注文が減った。当たり前です。うちの製品は、値段以外で負けたことは一度もなかった。品質でも、納期でも。それが今回だけは——」宮下はコーヒーを一口飲んだ。「値段のせいで負けたことになっている。技術者たちは、それが一番堪えると言っています」
「宮下さん」石川は言った。「私にできることは——」
「ないですよ」宮下は遮った。強い口調ではなかった。ただ事実を言うような声だった。
「あなたに文句を言いに来たわけじゃない。あなたが決めたことじゃないのも分かってる」
「では、なぜ」
宮下は少し笑った。疲れた笑い方だった。
「顔を、見ておきたかっただけです」
石川は宮下を見た。
「霞が関の人間は、数字を作る。俺たちは、その数字の分だけ、人を減らす。あなたたちは迷っていればいい。俺たちは今月、三十人に辞めてもらいました」
石川は喉が詰まった。
「迷うだけで、何かした気になるのは——」宮下はコーヒーカップを見た。「楽ですよ、たぶん」
それだけ言うと、宮下は伝票を持って立ち上がった。
「ごちそうさまでした、と言うのも変ですね」宮下は薄く笑った。「お騒がせしました」
喫茶店を出ていく背中を、石川は見送った。
追いかける言葉が、何も出てこなかった。
テーブルの上に、宮下のコーヒーカップが残っていた。半分、飲み残されていた。
石川はしばらく、そのカップを見ていた。
迷うだけで、何かした気になるのは楽ですよ。
その言葉が、後になっても消えなかった。
第五章 完




