第四章 判を押す
七月三十一日、合意が発表された。
ワシントンで、日米両政府が半導体をめぐる協議に決着をつけたという知らせが入った。テレビのニュースが速報でそれを伝えた。
石川は会議室で、送られてきた合意文書のコピーを読んだ。
「これで終わりですか」石川は三田に聞いた。
「終わりじゃない」三田は言った。「合意しただけだ。正式な文書を交わすのは、もう少し先になる」
「まだ、なにか変わる余地があるということですか」
三田は少し考えた。
「建前の上ではね」
その言い方に、石川は引っかかった。建前の上では。つまり実際には、もう決まっている。
窓の外では、まだ梅雨明けの湿った空気が残っていた。
*
九月二日、日米両政府の間で交換公文が取り交わされた。
一般に「日米半導体協定」と呼ばれる取極だった。日本の半導体の対米輸出価格を監視し、アメリカ企業の日本市場でのシェア拡大を後押しすることを約束する、そういう内容の文書だった。
七月に発表があってから、一か月余り。その間、石川の中でどこかに「まだ引き返せるかもしれない」という感覚があった。根拠のない感覚だった。でもあった。
九月二日、その感覚は消えた。
石川はその文書の最終確認作業を担当した。
誤字がないか。数字に間違いがないか。条文の表現に齟齬がないか。一字一句、確認して、チェックを入れて、次のページに進む。
四十ページ以上あった。
会議室に一人で座って、石川は午前中をかけてそれをやった。
窓から夏の名残の光が入っていた。外では蝉が鳴いていた。霞が関の夏の終わりは、どこか現実感がなかった。
途中のページで、石川の手が止まった。
外国系半導体企業の日本市場シェアについて記した付属文書だった。数字が、二〇パーセントという形で書かれている。
「係長」石川は隣の三田に聞いた。「これは、二〇パーセントを保証するということですか」
三田は文書を覗き込んだ。
「保証じゃない」
「では何です」
「期待だ」
「期待?」
「向こうはそう呼んでいる。日本政府が、外国系企業のシェアが数年のうちに二〇パーセントを少し超えることを認識し、その実現を歓迎する。文書上はそう書いてある」
石川は文書を読み直した。たしかに、そう書いてあった。約束、ではなく、認識、歓迎。
「でも」石川は言った。「向こうは約束だと思っていますよね」
三田は答えなかった。
石川は続けた。
「保証じゃないと言い張れる。でも数字は一人歩きする。二〇パーセントという数字だけが、この先ずっと基準になる」
三田は石川を見た。
「よく分かってきたな」
褒め言葉なのか、そうでないのか、石川には分からなかった。
最後のページまで来た。
確認終了、という印を押す欄があった。
石川は印鑑を取り出した。
手が、止まった。
一秒だけ、止まった。
押した。
朱肉の赤い丸が、白い紙の上に残った。
それだけだった。
書類をまとめてファイルに綴じた。立ち上がって、桐島課長の机に置いた。
「お疲れ」桐島は書類を受け取りながら言った。顔は見なかった。
「ありがとうございます」
石川は自分の席に戻った。
椅子に座って、自分の右手を見た。
印鑑を持っていた手だ。
何も変わっていない。同じ手だ。でも一時間前とは、何かが違う気がした。うまく言えない。言葉にならない何かが、指先に残っている気がした。
外では蝉がまだ鳴いていた。
*
昼休み、石川は一人で外に出た。
霞が関の周辺を、あてもなく歩いた。スーツが汗で張り付く。九月に入っても、東京は容赦がなかった。
国会議事堂が見えた。
その前を通り過ぎながら、石川は思った。
あの建物の中で、議員たちは今日の協定締結を知っているのだろうか。知っていたとして、何か言えるのだろうか。
答えは分からなかった。
コンビニに入って、冷たい缶コーヒーを買った。駐車場の隅で飲んだ。
大学の頃、指導教官に言われた言葉を思い出した。
「石川くん、通産省に行くのか。あそこは頭のいい人間が、頭を使って国のためにならないことをやる場所だぞ」
あのときは笑い飛ばした。
今は笑えなかった。
でも——と石川は思った。
三田係長の言葉が戻ってきた。内側にいる人間が、少しでもまともにやる。
辞めることは簡単だ。この印鑑を押したことを、理由にして辞めることもできる。でも辞めた後、この仕組みは続く。次の誰かが、次の書類に判を押す。
それで何かが変わるのか。
缶コーヒーを飲み干した。
答えは出なかった。
出なかったが、石川は霞が関に向かって歩き出した。
昼休みが終わる。午後の仕事が待っている。
第四章 完




