第三章 協定
六月に入って、石川の仕事が変わった。
書類を読んで要約するだけだったのが、会議に同席するようになった。最初は議事録を取るだけだった。それが気づくと、資料を作るようになっていた。資料を作るうちに、説明を求められるようになっていた。
気づいたら、協定交渉の実務に首まで浸かっていた。
「石川、明日のヒアリング用の資料、頼む」
三田係長ではなく、課長の桐島から直接言われるようになっていた。桐島は五十代、白髪交じり、声が低い。感情が顔に出ない人間だった。
「どのメーカーですか」
「三社全部。大和電子、東成電機、北斗電機。それぞれの対米輸出価格の推移と、原価の概算」
「いつまでに」
「今夜中に」
時計を見た。午後六時だった。
「分かりました」
桐島は頷いて、会議室に消えた。
石川は自分の席に戻って、データを広げた。三社分の輸出価格、製造コスト、利益率。数字を並べて、グラフを作って、説明文を書く。
やりながら、石川は気づいた。
この資料は何のために使われるのか。
アメリカ側に、日本の半導体の原価を説明するためだ。なぜ説明するのか。価格管理の基準を決めるためだ。価格管理とは何か。日本のメーカーが、自分たちで値段を上げるための仕組みだ。
つまり石川は今、日本のメーカーが自国製品を値上げするための資料を、夜中に作っている。
おかしい、という感覚が戻ってきた。
でも手は動いた。数字を打ち込んで、グラフを描いて、文章を書いた。締め切りがある。桐島課長が待っている。
手は、止まらなかった。
*
資料が完成したのは午前二時だった。
廊下に出ると、まだ電気がついている部屋がいくつかあった。霞が関の深夜は、いつもそうだった。誰かが必ずまだ働いている。
自動販売機でコーヒーを買って、窓の外を見た。
東京の夜景が広がっている。遠くにビルの明かりが見える。あの明かりの中に、今日資料を作った三社のオフィスもある。大和電子、東成電機、北斗電機。世界一の半導体を作っている会社たちだ。
その会社の社員たちは知っているのだろうか。
自分たちの原価データが今夜、霞が関で資料にまとめられたことを。
それがアメリカ側に渡されることを。
コーヒーを飲んだ。苦かった。
石川は通産省に入った理由を思い出した。日本の産業で世界と戦いたい。面接でそう言った。面接官が頷いていた。
世界と戦う、というのはこういうことだったのか。
自分たちの強さを、自分たちで削る書類を作ることが。
廊下の向こうで、電話が鳴った。こんな時間に、と石川は思った。霞が関の電話は夜中でも鳴る。それにも、もう慣れていた。
*
翌日のヒアリングに、石川は同席した。
会議室に、三社の担当者が並んでいた。みんな年上だった。四十代、五十代。現場を知っている顔をしていた。
桐島課長が口を開いた。
「皆さんもご存知の通り、アメリカ側との協議は最終局面に入っています。価格監視の仕組みについて、各社のご意見を伺いたい」
北斗電機の担当者——宮下という男だった——が言った。
「正直に申し上げます。受け入れがたい」
会議室が静かになった。
「我々は不当廉売などしていない。適正なコストで、適正な価格をつけている。それをダンピングと言われ、値上げを強いられる。市場原理に反しています」
桐島は頷いた。否定しなかった。
「おっしゃる通りです」
「では」
「しかし」桐島は続けた。「現実の問題として、協定を結ばなければ通商法三〇一条に基づく制裁措置に進む可能性がある。制裁関税がかかれば、輸出そのものができなくなる。どちらが御社にとって打撃ですか」
宮下は黙った。
他の二社も黙った。
答えは分かっていた。全員が分かっていた。
石川は議事録を取りながら、手が止まりそうになった。
止めなかった。
書き続けた。
会議室の時計が、静かに時を刻んでいた。
*
その夜、石川は三田係長と二人で残った。
「お疲れ」三田がコーヒーを差し出した。
「ありがとうございます」
しばらく二人で黙って飲んだ。
「係長」石川は言った。
「なんだ」
「今日のヒアリング、正しかったんですか」
三田は答えなかった。
「メーカーの人たちは、受け入れがたいと言っていた。桐島課長も、おっしゃる通りだと言っていた。でも結論は変わらない。協定を呑むしかない」
「そうだね」
「それは」石川は言葉を探した。「おかしくないですか」
三田はコーヒーカップを両手で包んだ。
「おかしいよ」
石川は驚いて係長を見た。
「おかしい。正しくない。でも」三田は窓の外を見た。「これが仕事だ」
「仕事だから、おかしくても続けるんですか」
「続けなかったら、誰がやる」
石川は答えられなかった。
「不満なら辞めればいい」三田は静かに言った。怒っているわけではなかった。「でも辞めた後、この交渉は続く。別の誰かがやる。その誰かが、君より上手くやれるとは限らない」
「それは」
「内側にいる人間が、少しでもまともにやる。それしかない」
三田は立ち上がって、コートを取った。
「帰りなさい。明日も早い」
足音が遠ざかって、石川一人になった。
窓の外に、東京の夜景が広がっている。
内側にいる人間が、少しでもまともにやる。
その言葉を、石川はしばらく繰り返した。
納得はできなかった。
でも、何かが少しだけ、動いた気がした。
第三章 完




