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協定の代償  作者: 八雲 海


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第二章 力で決まる

五月になって、石川はようやく書類の読み方が分かってきた。

 分かってきた、というより——読み方を覚えた、という方が正確だ。書いてある内容が理解できているかどうかは、また別の話だった。

 机の上には毎朝、新しい書類が積まれる。ワシントンからのファクス、業界団体からの陳情書、国内メーカーの生産データ。それを読んで、要約して、三田係長に渡す。それが石川の仕事だった。

 地味だった。

 でも石川は丁寧にやった。地方の国立大出身で、同期に東大が多い中で、丁寧にやること以外に武器がなかった。

 「石川くん」

 三田が声をかけてきたのは、ある水曜日の夕方だった。

 「これ、読んどいて」

 渡されたのは、薄いファイルだった。

 表紙に「日米半導体協議関連資料 極秘」と書いてある。

 石川は背筋が伸びた。

 「読んでいいんですか」

 「君の仕事に関係してくるから」

 三田はそれだけ言って、自分の電話に出た。

 *

 その夜、石川は官舎に帰らなかった。

 会議室の隅で、ファイルを読んだ。誰もいない部屋で、蛍光灯だけが白く光っていた。

 読み進めるうちに、石川の手が止まった。

 アメリカ側の主張はこうだった。日本の半導体メーカーは製品を不当に安く売っている。ダンピング——不当廉売だ。このままでは、アメリカの半導体産業が壊滅する。日本は価格を管理し、アメリカ企業の日本市場でのシェア拡大に道筋をつけよ。

 日本側の回答はこうだった。検討する。

 石川はページを戻した。もう一度読んだ。

 「価格を管理する」——つまり、自分たちで値上げする、ということだ。

 世界一安く、世界一高品質な半導体を作れるようになった。その結果として——自分たちで値段を上げろ、と言われている。

 しかもそれを、日本政府が呑もうとしている。

 石川はファイルを閉じた。

 会議室の時計が、午前一時を指していた。

 おかしい、と思った。

 でもおかしいという感覚を、どこにぶつければいいのか分からなかった。

 *

 翌朝、三田係長が来る前に石川は席についていた。

 「早いね」

 三田は少し驚いた顔をした。

 「ファイル、読みました」

 「そうか」

 「質問していいですか」

 三田は椅子に座りながら、「どうぞ」と言った。

 「日本の半導体は、本当にダンピングをしていたんですか」

 三田は答える前に、コーヒーを一口飲んだ。

 「していない、と日本側は主張している」

 「では、なぜ」

 「なぜ呑むのか、という話だね」

 石川は頷いた。

 三田はコーヒーカップを机に置いて、窓の外を見た。霞が関の朝の光が、斜めに差し込んでいる。

 「石川くん、貿易交渉というのはね」三田はゆっくり言った。「正しいかどうかで決まらない」

 「では何で決まるんですか」

 「力で決まる」

 短い言葉だった。

 石川はその言葉を、すぐには飲み込めなかった。

 力で決まる。

 大学で習った経済学には、そんなことは書いていなかった。市場は効率的に機能する。優れた技術は正当に評価される。公正な競争が産業を育てる。

 そう習った。

 「係長は」石川は言った。「それで、納得しているんですか」

 三田は石川を見た。疲れた目だった。でもその奥に、何かがあった。怒りとも悲しみとも違う、もっと古い何かが。

 「納得するかどうかは関係ない」

 「関係ない?」

 「仕事だから」

 電話が鳴った。三田は受話器を取った。会話が始まった。

 石川は自分の机を見た。

 今日も書類が積まれている。ワシントンからのファクス、業界団体からの陳情書、国内メーカーのデータ。

 それを読んで、要約して、渡す。

 それが仕事だった。

 石川は一番上の書類を手に取った。

 手が、少し重かった。

第二章 完


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