第一章 霞が関の新人
本作はフィクションです。歴史的事実および実在の法律・機関・企業名が登場しますが、登場人物・会話・内部描写・心理描写はすべて著者の創作であり、実在の人物・団体の見解や行動を示すものではありません。
四月の霞が関は、桜が散った後も寒かった。
石川宗一は自分のデスクの前に立ったまま、しばらく動けなかった。
机の上に書類が山になっている。どれから手をつければいいのか分からない。隣の先輩は電話をしながら、空いた手でキーボードを叩いている。向かいの席の女性は分厚いファイルを広げて、赤ペンで何かを書き込んでいる。誰も石川を見ていない。
通産省機械情報産業局。
石川が配属を告げられたのは三日前だった。
半導体を扱う部署だ、と先輩に言われた。日本が世界一の半導体大国になった立役者の部署だ、とも。石川は胸が高鳴った。入省前から、この国の産業で世界と戦いたいと思っていた。地方の国立大を出て、同期のほとんどが東大という中で、それでも通産省を選んだのはそのためだった。
ここで働く意味がある、と思っていた。
「石川くん」
声がして振り返ると、係長の三田が立っていた。四十代、眼鏡、いつも少し疲れた顔をしている。
「座っていいんだよ」
「あ、はい。すみません」
椅子を引いて座った。背筋を伸ばした。
「緊張しなくていい。最初の一週間は見てるだけでいいから」
「何を見ればいいですか」
三田は少し笑った。
「全部」
それだけ言って、自分の席に戻った。
石川は書類の山を見た。全部、と言われても何が何だか分からない。でも分からないなりに、一番上の書類を手に取った。
英字が並んでいた。
USTR——アメリカ通商代表部。
その四文字が、書類の冒頭にあった。
*
その日の夜、石川は官舎の狭い部屋でビールを飲んだ。
テレビのニュースが流れている。経済ニュースのコーナーで、アナウンサーが「日米貿易摩擦」という言葉を使っていた。
石川には馴染みのある言葉だった。大学でも、就職活動でも、何度も聞いた。日本の輸出が強すぎてアメリカが怒っている、という話だ。自動車、家電、そして半導体。
でも今日、あの書類を見るまでは——どこか遠い話だと思っていた。
USTRのレターヘッドが入った書類は、遠い話ではなかった。
霞が関の自分のデスクの上にあった。
石川はビール缶を置いて、天井を見た。六畳の部屋に、段ボール箱がまだ三つ残っている。引っ越しの荷物を全部片付ける前に、もう仕事が始まった。
日本の産業で世界と戦いたい。
その言葉を、石川は入省の面接でも言った。面接官は頷いていた。
でも今日、三田係長の疲れた顔を見ていて——何かが引っかかった。
何が、とはまだ言えない。
ただ引っかかった。
ビールの残りを飲み干した。
第一章 完




