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梅見坂奇譚  作者: 真桑瓜
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梅見坂奇譚第三部〜島歌舞伎

梅見坂奇譚第三部〜島歌舞伎


                     1


一年前


僕は、つい聞き耳を立ててしまった。下品なことだとは重々承知しているのだが、物書きの性であろう。後の座席の大学生二人連れが話している内容が、心の琴線に触れてしまったのだ。

「島歌舞伎なんだって」窓際に座った若者が言った。

「ふ〜ん、俺は興味ないね」通路側の若者がつまらなそうに応えた。


売れない幻想作家、秦太一は街に出るために乗ったバスの中で、この会話を耳にしたのであった。

小説のネタはどこにでも転がっているというものでは無い。少しでも興味が湧けば自然に心が集中してしまう。

「夏休みに一緒に行かないか?」

「だって漁船で二時間だろう?俺、船は弱いんだよ」

「美味い魚がたらふく食べられるぞ。それに、松岡先生の手伝いをすればバイト料も貰えるし」

「う〜ん、うまい魚は魅力だな、それに懐も寂しいし。なんて言ったっけ、その島の名前?」

「遠呂智(おろち)島だよ」

「何だか大蛇が出そうな島だな・・・」

通路側の青年は暫く考え込んでいたが、意を決したように口を開いた。

「よし、行くか!どうせ前期の試験は済んでるんだ、夏休みのイベントとしては面白い」

「そう来なくっちゃ!なら、明日にでも先生に返事しておくぞ」

「ああ、稽古ばかりじゃつまらないもんな」

「稽古着は持って行くぞ。先生の厳命だ」

「ちえっ、真面目だなぁ」

「あはは、合宿だと思えばいいさ」

「しょうがない、諦めよう」


「あ、あのぅ・・・」僕は振り向いた。

「あっ、煩かったですか?御免なさい」窓際の青年が言った。

「何、謝ってんだよ、小声で喋ってたじゃ無いか」憮然とした声で通路側の青年が言った。

ここで声を掛けるか否かで、小説が一本書けるかどうかが決まる。僕は必死で否定した。

「い、いえ、そうじゃありません。今の話をもう少し詳しくお聞かせ願えないかと・・・あっ、これ僕の名刺です」

この前、カナに疑われた僕は、早速名刺を作ったのだ。幸いあの小説は評判が良く、次の仕事の依頼もあったので必要経費で賄った。

「えっ、小説家の先生ですか?」

「見えないよなぁ?」

「け、決して怪しい者では・・・」

また疑われた、きっとこの風貌とオドオドした態度がいけないのだろう。

「ぼ、僕は今、小説のネタを探しているのです、宜しければ三十分だけ話を聞かせて下さい」

「どうする敦?」

「う〜ん、でもなぁ」

「コ、コーヒー奢ります!」

「あ、そう。じゃあ、ま、いっか」

敦と呼ばれた青年が言った。



僕らはバスを降り、昔ながらの喫茶店に入った。僕は、現代的な洒落た喫茶店が苦手だ。席と席の間が狭くて落ち着かない。僕はゆったりしたシートに座って、アイデアノートを取り出した。

「福、お前が話せよ。俺はただくっついて行くだけだからな」

窓際に座っていた青年は福というのか。

「えっと、話せば長くなるのですが・・・済々会病院ってご存知ですか?」

「知ってます、県庁の近くにある病院ですね」

「はい、その病院が年に一度離島の無料診療をやっているのです」

それは知っている。一月ほど前、地元の新聞に大きく記事が出ていた。

「それを始めたのが歯科医長の松岡先生なのです」

それは知らなかった。正直、歯医者さんが始めたというのは驚きだ。

「病院上げての診療は先月終わったのですが、それとは別に松岡先生は個人的に遠呂智島に通っているのです」

確かに、数日間の診療で歯の治療が終わる筈はない。

「で、それに荷物持ち兼助手として着いて来ないかと誘われたのです」

一人じゃ何かと不便であろう事は容易に想像できる。

「先生とはどういったお知り合いで?」

「済々会の道場で一緒に空手をやっています」

「ほう、病院に空手の道場・・・ですか?」

中国拳法の次は空手か・・・

「はい、これも松岡先生が始めた病院内の部活で、僕はそこで指導員的なことをやっています」

「それで、稽古着を持って行くと仰っていたのですね」

僕は、そのことをノートに書き込んで、やっと本題に入った。

「所で、島歌舞伎とはどういったものなのでしょう?」

「えっ、島歌舞伎?」

「さっきバスの中で言っておられました」

「そうだ福、お前確かに言ってたぞ、俺は興味がないから聞き流していたが・・・」

「ああ、あれか。僕も詳しくは知らないのですが、なんでも年に一度島民が演じる、素人歌舞伎なんだそうです」

遠呂智島は陸から遠く離れた玄海灘の孤島だ。

「何故、そんなところに歌舞伎が?」

「う〜ん、なんか昔、島にとって良くない事が起こったらしいんですね。それで島の神社に『万念願』というものを懸けたらしいのです」

「万念願?」

「たとえ島民が一人になっても芸能を奉納し続けます、と神様に誓ったんだそうです」

「ふ〜む、それが起源ですか」

「なんでも、芦屋から役者の師匠を呼んで指導をして貰っていたらしいんですが、素人とは思えないほど豪華絢爛な歌舞伎だと聞きました」

「今回の島行きで、それをご覧になるのですね?」

「先生はそう言っていました、珍しいものだから是非見ておくと良いって。それ以上のことは僕には分かりません」

僕はそれを絶対に観たいと思った。

「僕も同行させて頂けませんか?」

気がつくと僕は、福という青年に頭を下げていた。



                    2



二日後、福君から嬉しい知らせが届いた、同行を許可するという事だった。

「先生、あっさり許してくれましたよ。『俺も若い頃小説家になりたかったんだ』って」

実際、その先生が小説家になっていたら、どんな小説を書いていたのだろう。

「有難う、恩に着ます」

「じゃあ来週の水曜日、朝六時に魚市場の船溜りまで来て下さい」

「承知致しました」

楽しみにしています、と言って福君は電話を切った。



当日は快晴、海は頗る凪いでいた。船溜りに着くと、遠呂智丸という名の漁船の横に初老の紳士が立っていた。松岡先生に違いない、僕は先生にお礼の挨拶をした。

いい小説を書いてくれよ、と松岡先生は言った。

若者二人がリヤカーにたくさんの荷物を積んでやって来た。

「お早うございます。見て下さいこの荷物、秦さんが来てくれて助かった」福君が言った。

「先生、僕ら二人じゃ足りないと思ったから、秦さんの事、許可したんでしょう?」敦君が不満げに言った。

「フハハハハ、その通りだ!」豪快に笑って先生は敦君の言葉を肯定した。

全員で荷を船に積み込み、間も無く船は遠呂智島に向かって出航した。

「先生、今日は揺れる心配はないぜ!」船長の白水蔦夫さんが操舵室から怒鳴った、エンジンの音がそれなりに喧しかったからだ。

「そりゃ、有難いな。昨日中洲で呑み過ぎちまった。これで酔ったら言い訳が出来ん」

きっと、若者二人もお供させられたに違いない、そう言えば顔色が悪かった。

防波堤を抜けると多少波が出て来たが、案ずるほどの事は無さそうだ。

しかし、敦君は顔を顰めている。もともと船には弱いのだそうだが、二日酔いならなお更だ。

水面に魚が跳ねた。トビウオだ、船に驚いたのだろう、優に100メートルは飛んだだろう。

「気を付けろよ、たまに船に飛び込んで来るから」先生が笑った。「そんときゃ、晩飯のおかずにするけどな、フハハハハ!」

魚市場を出て一時間が立った頃、ついに敦君が海に向かってリバースした。とても辛そうだ。

福君は・・・まだ大丈夫のようだ。

先生だけが異常に元気である、陸の上では紳士に見えたのだが、船の上では漁師に見える。海を渡るという高揚感がそうさせるのか?

「秦君はどんな小説を書くんだい?」唐突に先生が訊いた。

「ファ・・・いえ、幻想小説です」この状況で、ファンタジーとは言い難い。

「そうか、あれは難しいものだな。何を書いても良いが、ちゃんと筋が通っていなければ面白く無い」

そうなんです、いつもそこで悩みます・・・と言った時に島影が見えて来た。

「し、島が見える。先生やっと着きましたぁ!」

敦君が立ち上がって島影を睨んだ。

「敦、がっかりさせて悪いけどな、島は見えてからが遠いんだ」

敦君は、しおしおと萎れた。

先生の言った通り、それからが長かった。もちろんこれは実際の時間というよりも、精神的な時間というものだろう。

時間は相対的なものだから、敦君は我々よりも長い時間に感じていたに違い無い。

旅は九十九里をもって半ばと思え、である・・否・・ちょっと違うけど。


防波堤の内側に入るとホッとした。

陸に上がると敦君の足が縺(もつ)れた。地面が揺れているのだそうだ。

ほぼ三人で荷揚げを完了する。敦君は頻りに謝っていた。

「あと一時間もすれば元に戻るさ」松岡先生が敦君を慰めた。


島の診療所に荷物を運び込み、漁協の二階に落ち着いたのはお昼前だった。

この島に宿泊施設は無い。

今日の診療は二時から五時までの予定。鯵が丸ごと一匹入った味噌汁に鯵の刺身で昼食を摂る。

「夜は御馳走だからね、楽しみにしておいで」と、船長の奥さんが言った。

敦君はすっかり回復していた。

調子に乗って飲みすぎるからだよ、と福君に揶揄われている。


少し昼寝をして、一時半に診療所へ行くと、島民がもう列を作っていた。

「ちょっと待っててな、すぐに始めるから」松岡先生が手を上げて言っている。

荷出しを済ませたところに中島さんが帰って来た。

「御免なさい、百恵さん家の赤ちゃんが熱を出したものだから・・・」

この島に医師はいない、保健婦の中島さんが居るだけである。

中島さんは白髪頭をお団子に結って割烹着を着ている普通のおばさんだが、島民の健康を一手に引き受けている島の守り神だ。

「中島さん、またお世話になります。今回は活のいいのを連れて来ました、なんでも手伝わせてやって下さい」

「まあ、松岡先生助かるわ。よろしくお願いします」そう言って中島さんは僕らに頭を下げた。

「秦君、作家だからって特別扱いはしないよ」

当たり前です、と答えて中島さんに挨拶をした。

「まあ、作家さんなの?」

「はあ、全く売れていませんが・・・」

そう、期待しているわね、と中島さんは微笑んだ。


「え〜と、この中で一番器用そうな奴は・・・」そう言って松岡先生は我々を値踏みした。

「福だな。福、お前石膏流しを手伝え」

「え、石膏流し?やった事ありません」

「今から教える」

「敦と秦君は漁協に戻って奥さんを手伝って来い。力仕事が山ほどあるからな」


僕と敦君は漁協への道を戻った。

「チェッ!福の奴楽でいいなぁ」

「そうでもないよ、石膏流しって歯の型に石膏を流し込む作業の事だろ?少しでも気泡が入ればお終いだ。神経擦り減らすよ」

「そうなんだぁ、やっぱり俺力仕事の方が向いてる気がして来た」

「僕はいつも机に向かってばかりだから、少しは躰を動かさなくちゃ」

漁協へ戻る道すがら、僕は猫が非常に多い事に気が付いた。

島の人たちが魚を捌くすぐ側に居て、切り落とされた頭や内臓を狙っている、が、

決して人に懐こうとはしない。

この猫たちも必死で生きているんだな、僕はこの島の人たちの厳しい現実を知った。


漁協に戻ると、船長の奥さんが婦人会の女性たちを指揮して夜の歓迎会の準備で大わらわである。

「松岡先生に、こっちを手伝うように言われたのですが・・・」

僕は船長の奥さんに声を掛けた。

「そうかい、じゃ、風呂の水汲みをやってもらおうかね」

僕達は島に一つだけある共同浴場に連れて行かれた。小さな小屋のような建物である。

「掃除は済んでるから、中の浴槽に水を張ってくれるかい?」

「承知しました」

「水はそこの井戸からバケツに入れて運ぶんだよ」

奥さんは小屋の横にある鋳物のポンプを指差した、もちろん手押式である。

「終わったら教えてちょうだい」

そう言って奥さんは、そそくさと漁協へ戻って行った。


「なんだ、これは!」小屋の中から敦君の頓狂な声がした。

入って見て驚いた。中には鋳物の大きな釜が二つ並べて置いてあり、中央を板壁で仕切ってあるだけだった。

「これは、五右衛門風呂だね」

「五右衛門風呂ォ、初めて見た!」

僕も実物を見るのは二回目だった、小さい頃に田舎で見た事がある。

「これに二百人の島民みんなが入るのか・・・」敦君が絶句した。

「この丸い板に乗って入るんだよ」僕は敦君に説明した。「バランスを崩すと背中に火傷する」

「ヒエ〜!」

「焚き口は小屋の外だね」

実際に見に行った。灰は綺麗に掃除してある。

「さあ、すぐにでも始めなきゃ。夜までに二つの釜に水を満たさなくちゃならない」

「ウヘェ!気が遠くなりそうだ」

敦君は文句を言いながらもバケツに水を汲み始めた。

「アレェ、秦さん水が出ないよ?」

敦君は力任せに手押しポンプを押しているが、スカッ、スカッと空振りするだけで水が出て来ない。

「そこのバケツに水が汲み置きしてあるだろう。それをポンプの上から入れてやるんだ、誘い水をしなきゃそのポンプは使えないよ」

ふ〜ん、そうなんだ、と言いながら敦君は水を注いでポンプを押した。

「あっ、ホントだ、水が出て来た!」

「ピストンに皮が巻いてあるんだけど、それが乾いているとポンプとの間に隙間ができて水が上がって来ないんだ」

「へ〜、前近代的だなぁ・・・ちょっと飲んで見ていいかな?」

「いいと思うよ、井戸水は冷たくて美味い筈だ」

敦くんは両手に水を掬って一口飲んで顔を顰めた。

「ちょっとしょっぱい!」

そうか、ここは周りが海なのだ。井戸に海水が混じっていてもおかしくない。

「島の人は、飲み水はどうしてるのかなぁ?」敦君が言った。

「船の中から、島の上の方にタンクのようなものが見えたけど、あれは雨水を貯めておく貯水槽だったんだ」

「俺、それどころじゃなかったもんな・・・水は大切にしなきゃ」

敦君は無駄口を叩くのをやめて、水を汲み始めた。僕がそれを浴槽に運ぶ。

途中何度か交代をして、日が西に傾く頃浴槽がいっぱいになった。

へとへとになった僕らは船長の奥さん・・・白水信恵さんというのだが・・・に報告に行って診療所に戻った。


診療所では、福君が石膏を練りながら四苦八苦していた。

「何度言ったら分かるんだ、バイブレーターを使って彫刻刀の先で少しづつ流すんだよ!」

松岡先生が怒鳴っている。福君は情け無い顔で僕らを見た。

「敦、秦さん、助けて〜。これ超難しい」

「当たり前だ、簡単に出来るなら技工士はいらん!」

理不尽である、福君は素人なのだ。敦君は僕にだけ聞こえるように水汲みで良かった、と呟いた。



「さあ、今日の仕事は終了だ。みんなご苦労だったな、漁協に戻ろう!」

松岡先生の一言で、皆元気を取り戻した。意気揚々と漁協に引き上げると、既に宴の準備は整えられていた。

漁協の二階には二十人ほどの島の人が集まっており、海の幸が山と並べられた折り畳み式のテーブルの前に座を占めていた。いずれも島の重鎮達であろう。船長の姿も見えた。

先生は上座の中央に誘われ、僕らも上座近くに席を与えられて座らされた。

「本日は、遠路遥々我が遠呂智島へ歯科診療の為に海を渡って頂き有難うございます。松岡先生には先月、済々会病院の無料診療を行って頂いたばかり。またこのようにして来て頂いた事は島民にとって何よりの喜びであります・・・」

本家(ほんや)の長、嶌田島太郎さんが島を代表して松岡先生に謝辞を述べた。

これに松岡先生が答礼を述べ、宴が始まった。

僕などは普段決して口に出来ない、鯛や鮑やクエといった高級魚介類が目の前に並んでいる。

酒もこの島では貴重品の筈だが、ふんだんに用意されていた。いかに松岡先生が大事にされているかが分かる。

また、島の畑で採れた玉葱や馬鈴薯もテーブル上に置かれているが、これ等はある意味鯛や鮑より、この島にとっては貴重な食材に違いない。

島太郎さんが松岡先生に何事か耳打ちをしている。途切れ途切れに聞こえて来たことを要約してみると、『今日は島の青年達は歌舞伎の稽古で上の宮に上がっているので来れなくて申し訳ない、明後日の本番は朝から一日掛の行事になるので、診療は中止して十分楽しんで行って貰いたい』という事になろうか。

そうなのだ、僕は本来の目的を思い出した。

僕は徐にアイデアノートをポケットから取り出して取材を開始した。

「いったいいつの頃から何の目的で始まったのですか?」

僕は先ず、隣に座る中年の漁師さんに島歌舞伎のことを尋ねた。

「さてねぇ、詳しい事は分からんが歌舞伎が始まったのは江戸時代中頃の事じゃなかろうか?この島に人が住み始めたのが家光さんの頃じゃでね。その前は無人島じゃった」

家光さんとは三代将軍徳川家光の事であろう。

「あるとき島に疫病が流行っての、島にゃ医者がおらん。それで神様に願を懸けたんじゃ」

「どのような願だったのです?」

「もしもこの願叶うのならば、たとえ島民一人になろうとも、芸能を奉納し続けます。と、そりゃあ強力な願懸けじゃったらしい」

これは、福くんが言っていたことと一致する。

僕は礼を言って酒徳利を持って移動した。なるべく年嵩の島民を探して同じ質問をしてみた。

「啓次郎さんはそう言っておったか、ほぼ間違いは無いが別伝もあるぞ」その老人は言った。

「別伝?・・・ですか」

「ここは、中世には海外交易で活躍した宗像大社の社領だったのじゃ。そのあとは啓次郎さんが言っておった事と同じじゃが、歌舞伎の起源がちと違う」

「どう違うのです?」

「ある時不漁が続いたのじゃな。で、大漁を祈願して始まったという説もある」

「どちらが本当なのです?」

「分からんよ、文献など残っておらんからのぅ。じゃからこの島では『万年大漁願』と言っておるよ」

僕は、興味本位ながら啓次郎さんの説の方が面白いと思った。


この調子で宴の最中に僕が集めた情報によると、歌舞伎を演じるのは十六歳から三十三歳までの青年と呼ばれる島民である事、練習から本番まで二週間漁を休む事、科白の稽古は下の宮で三日間、立ち稽古は上の宮で一週間行う事 、などが分かった。

ただ、僕はある古老の話が気になっていた。島内で島歌舞伎の存続に疑問の声が上がっていると言うのだ。

その原因は二つある。一つは歌舞伎の為に二週間も漁を休む必要があるのかと言う事と、もう一つは、テレビの普及によって島民の娯楽への欲求が満たされた為、島歌舞伎への関心が無くなりつつあると言う事だった。

それから僕は嶌田九州男(くすお)さんから衝撃的な事実を聞かされたのであった。


「あんた、新聞記者かなんかかね?」

宴もたけなわとなった頃、一人の酔漢が僕の横に座ったのだ、それが九州男さんだった。九州男さんは島太郎さんの息子である。

「いえ、僕はただの作家です」

「ほう、作家さんかね。だったらこの島のことを書いてくれよ、この島で今何が行われようとしているかを・・・」

「何が・・・って?」

「あんた、明後日の島歌舞伎を観に来たんだろう?」

「はあ、まあ・・・」

「それが来年から無くなるんだよ」

「えっ!」

「だからさぁ、今夜青年衆がここに来なかったのはなんでか分かるかい?」

「上の宮で歌舞伎の稽古をやっているとか・・・」

「それは表向きの理由だ、本当は島歌舞伎を存続させるか否かの集会をやっている」

「えっ、まさか・・・」

「ここにいるのは皆、存続賛成派の連中だが上の宮には反対派の連中が集結しているんだよ」

僕は雷に打たれたように硬直した。僕なんかが心配しても始まらないのだが、それでも何百年も続いて来た伝統の行事が、今まさに終わろうとしているのだ。

「奴らの言い分はこうだ。ただでさえ貧乏な島が、二週間も漁を休めばさらに実入りが減って貧しくなる。それに昔はこの島に医者はいなかったが、今は保健婦の中島さんが居るし、大きな病院も無料診療に来てくれる。博多まで一日がかりだったのが今では二時間もあれば行ける、緊急の時はヘリも来てくれるのに、なぜ昔の人の約束に我々が縛られなければならないのか、と・・・あんたどう思う?」

どう思うと問われても僕には何も答える術は無い。逡巡していると上座の島太郎さんから呼ばれて、九州男さんは席を立った。

僕はまた深く考え込んでしまった。



「・・・さん、秦さん、どうしたんですか?何考え込んでるんです?もう終わりましたよ」

福くんに声をかけられて顔を上げると、島の人たちが帰って行く所だった。

「ああ、いつの間に・・・」

「僕ら明日五時起きで朝稽古があるのでもう寝ますが、秦さんはどうします?」

「松岡先生が張り切っちゃって、疲れるなぁホント」敦君がこぼした。

「僕は風呂に行ってきます、久しぶりの労働で疲れちゃったから」

「分かりました、布団敷いておきますから、帰ったら勝手に寝ちゃってくださいね」

「あ、ありがとう・・・じゃあ行って来ます」僕は漁協を出て共同浴場に向かった。



暗い坂道を上って浴場に着くと誰も居なかった。

風呂を覗くとお湯が泥のように濁っている。島民の殆どがここで湯に浸かるのだ、当たり前だろう。

少し冷めた湯に肩まで浸かる。釜の縁ももう熱くはない、浴槽に背を持たせて目を瞑ると疲れがどっと噴き出してそのまま眠ってしまった。

どれくらい経ったのだろう、僕は異様な気配に目を覚まし、急いで服を着て外に出た。

外はシンと静まり返って何処にも異常は感じられなかった。さっきの気配はなんだったのだろう?

空を見上げると、天空に満月がぽっかりと浮いているのが見えた。

「変だなぁ、確かに感じたんだけ・・・あっ!」

いつの間にか月が二つになっている。

二つが三っつになり三っつが四っつ四っつが・・・あっという間に二十ばかりになった。

「あれは月ではない・・・狐火だ!」

よく見ると、島の最高峰の西側にそれはあった。あの辺りには上の宮がある。

しばらく見ていると、狐火は一つになり大きな球を作った。

そしてすごい勢いで回転を始めると、ゴウッ!という音を立てて天に昇って消えていった。



漁協に戻ると当然ながらみんな寝ていた。先生も福君も敦君も大きな鼾をかいて気持ち良さそうに眠っている。

僕は、今見た事を誰にも言わず布団に潜り込んで寝る事にした。きっと、言っても誰も信じてはくれないだろう。




                     3



翌朝、僕は三人の稽古を見る為に防波堤の端に居た。

朝焼けを背景にした三人の群青色の影は、僕に子供の頃の影踏みを思い出させた。

しかし僕の影より三人の影の方が濃い気がする、きっと軸がブレていない分、輪郭がはっきりしているのだろう。

稽古は、基本の突き蹴り、型、それから二人で演じる殺陣のようなもの・・・僕には何という呼び名で呼ばれているのか分からない・・・と粛々と進んで行った。

思ったより静かな稽古であり、僕の空手のイメージとは大分違っていた。

福君と敦君が組手・・・これは僕でも知っている・・・を始めた。

僕の知っている空手とは明らかに違う、動と静のコントラストがハッキリしている。

動から静への変化が早い、それでいて・・・なんと表現したら良いのだろう・・・止まっていても動いているのだ。

僕は昨日の事も忘れて稽古に魅入ってしまった。


その時、漁協のスピーカーからサイレンの音がけたたましく鳴り響いた。

三人は稽古をやめて立ち尽くしている。僕もサイレンの方を向いた。

「緊急連絡!緊急連絡!島の青年衆が行方不明!詳細は分かりません、捜索隊を募ります、島民は急いで漁協前に集まって下さい!」

スピーカーの声は動揺を隠しきれない。

「行くぞ!」言うより早く松岡先生が走り出した。二人も続いて走り出す、僕も後を追った。

漁協へ着くとすでにたくさんの島民が集まっていた。島太郎さんがハンドスピーカーを口に当てて立っている。

「昨夜、上の宮に登って歌舞伎の稽古をしていた青年衆二十名が今朝になっても戻って来ません。先ほど消防団の澄夫さんに様子を見に行って貰ったら、全員が忽然と姿を消していると言う報告がありました。焚き火はすでに消えていてすっかり冷めていたそうです。然し乍ら全員が一度にいなくなる事など、この狭い島の中では考えられません。考えられるのは青年衆が示し合わせてどこかに隠れていると言う事です」

「歌舞伎が嫌になったんと違いますか?」島民の中から声が上がった。

島太郎さんは、ちょっと僕らの方を気にしてから、コホン!と咳払いをして続けた。

「仮令(たとい)そうであったとしても、明日の島歌舞伎は成功させねばなりません。で、なければ、数百年続いた島の伝統が途絶える事になります。また、神様との約束を違えてしまえばどんな災厄がこの島に降りかからないとも限らない。みんなで手分けして青年衆を探しましょう!」

「応!」と、その場にいる全員が声を揃えた。

「では、山は消防団、海は自警団に分かれて捜索しましょう。その他の人は半分に分かれてそれぞれの指示に従って下さい!」

島民たちは二手に分かれて捜索に出発して行った。


「松岡先生、聞いての通りです。今日の診療は中止して下さい」と、島太郎さんが済まなそうな顔をした。

「いや、爺さん婆さんが来るかもしれない、診療はやるよ。ただ、俺たちも独自に捜索をしよう。福、敦、秦君、君達は上の宮をもう一度見てきてくれ、何か手がかりになるものがあるかもしれない。島の本部は漁協になるだろうから、俺たちは診療所を本部にする。何か分かったらすぐ俺に報告しろ」

「はい!」

僕たちは診療所の前の道を、上の宮一の鳥居に向かって出発した。


道すがら、僕は昨夜の不思議な出来事を二人に話した。

馬鹿にされるかと思いきや、案外二人とも真剣に聞いてくれた。

「今回の件は神隠しだ。その狐火はきっとそれに関わりがあるに違いない」福君が呟いた。

「見たかったなぁ。俺も秦さんと一緒に行けばよかった」

「敦君は怪異を信じるかい?」僕は道に突き出た石を避けながら訊いた。この島に自動車がないのは幸いである。

「信じますよ。少なくとも、あれは動く発光体だとかプラズマのような放電現象だとか説明されるより、ずっと夢があるもの」

「僕は、幻想小説を書いている所為か、よく不思議なことに出会うんだよ」

「僕も高校生の時、バイクで旅をしていて不思議な体験をしました。あれは思い違いなんかじゃない」

「そんな事を言ってると、またケイさんに説教されるぞ」

「いいんだよ、あれは僕にとっての真実だ」

そんな事を話して歩いていると、集落の外れに出た。



「あれが一の鳥居だ」

最近塗り替えられたのであろう、鮮やかな朱色の鳥居が目の前にあった。

鳥居を抜けると鬱蒼とした森だった。昼なお暗いという表現がピッタリの場所だ。

そこを、まっすぐ山頂に向かって伸びる石段を、登り切ったところが上の宮の拝殿である。

「ここを一気に登るのは相当にしんどいぞ」

「何言ってんだよ敦。いつも愛宕神社の石段を駆け上がってトレーニングしているって威張ってたじゃないか」

「これはそんなもんじゃないぞ、月とスッポン兎と亀だ」

「それなんか違わないか?」

「いいんだよ、適当で」

「あっ!下から誰か上がってくる!」

僕は思わず叫んでしまった、なんだか時代掛かった服装で二人の若者が登って来る。


「えっほ、えっほ、お前もう少ししっかり担げ。早よ登らんと又年長組にどやされるぞ!」

「そんな事言ったって、水は重いんだよ。お前は前だからいいが後ろの俺の身にもなってみろ!」

若者達は天秤棒にタゴを吊るして運んでいるのである。

二人は僕らの事など目に入らない様子で、まっすぐこっちに向かって登って来る。

「おっと」思わず石段の端に避けて後ろから声を掛けた。

「すみません、この島の方ですか?」

返事が無い、もう一度声を掛けたが結果は同じだった。

「秦さん、彼ら聞こえていませんよ、いや、見えてさえいないようだ」福君が言った。

「許せんなぁ、ガン無視かよ。よし、追い掛けてとっちめてやる!」

「やめろ敦、なんか変だ」

「何がだよ」

「良く見ろ、彼らには影が無い。いくらここが暗いと言っても昼前じゃないか。影ができないのは不自然だ」

そうなのだ、それが証拠に僕らの影は出来ている。木漏れ日が作った影がはっきり見えているのだ。

「よし、後ろからついて行こう、見えてないのなら寧ろ好都合だ」

僕らは若者の後ろから同じ速度で石段を登った。

「ゆっくり登れて助かったよ。あれれ、後ろの奴足が縺れてるぞ」

「お前も陸に上がったとき縺れたじゃないか、人の事は言えないだろう」

「チェッ、早く忘れろ!」


これは明らかに怪異である、だけど二人は少しも気にする風がない。大胆なのか鈍いのか、まあいい、空手着姿の彼らの背がやけに頼もしく見えた。



「三つ違いの兄さんと、言ふて暮らしているうちに・・・」

後棒を担ぐ青年が何やら独り言を呟いている。台詞の練習でもしているのか?

「おい亀吉、もう少しだ。水を竃の鍋に入れたらマツバフスベをするぞ」

「分かった晋作、だけんど着いたら少しだけ休ませてくれ」

「馬鹿、もう直ぐ年長組の青年連中が上がってくるんだ、一匹でも蚊がいたらひどい目に遭う」


察するにマツバフスベとは蚊遣りの事らしい。マツバと言うからには松の葉を炊くのだろう。

二人は境内に設えてある竈の前にタゴを下ろした。見ていると晋作と呼ばれた青年が松の葉を集めだした。

「亀、お前は竃に火を入れろ。少しは休めるだろう」

「済まん、恩に着る」


松の葉を集め終わると晋作は火を点けた。白い煙がモウモウと深い森の中に吸い込まれて行く。

僕らはそれを直ぐ近くの拝殿の階段に座って見ている。まるで芝居の観客になった気分だ。


「そこな人・・・」

背後から声がした。振り向いて見たが誰も居ない。

「そこな白装束のお人・・・」

薄暗い拝殿を透かして見ると奥で何か蠢くものがある。

「そち達は神に仕える身であるか?」

静々と・・・本当に静々と、白い狐が姿を現した。

「私は天狐、熊野三神の使いである」

「き、狐が喋った!」敦君が吃驚して叫んだ。

「その白装束は神職のものであろう」再び狐が問うた。

狐は空手着を白装束と思っているようだ。

「いえ、僕たちは神職ではありません」福君がキッパリと言った。「僕たちは武術を志す者、この白い空手着は死装束で、死を覚悟して修行をするという事です」

なるほど、白い稽古着にはいういう意味があったのか。

「そうであったか・・・して、そちらのお方は?」

白い狐が僕に視線を投げた。

「ぼ、僕はただの作家です」

「作家?それは黄表紙の戯作者の事か?」

「は、はい、そのような者で・・・」

「不思議よのう、そちたちにはこの私の姿が見えると云う・・・」

「はい、ハッキリと!」敦君が言った。

「ならば、これから起こることをその目でしっかりと見届けよ。そして人の世の転倒を世に知らしめて欲しい」

「転倒?・・・いえ、僕らは行方不明になった青年衆を探しに・・・」

その時、石段の方がやけに騒がしくなった。


「亀吉、年長組が来たぞ!」

「もう湯は沸いた、いつでも茶は淹れられる!」

「そうか、でかした!」


拝殿を見ると、白狐の姿は消えていた・・・








「壺阪、次は壺阪をやるぞ」島の玉三郎こと小田長次郎は言った。

演目は六段目まである、切り狂言から始まって『壺阪』は五番目の出し物だった。

「亀吉、お前俺の代わりに座頭の沢市の妻お里を演ってみろ!」

「えっ!長次郎さん、本当ですか俺を『壺阪』に出してくれるんですか?」

突然だった。亀吉は気負い込んで長次郎に訊いた。

「おうよ、尾ノ上喜多之助師匠が亡くなる前に俺に教えてくれたんだ。お前『壺阪』を教えてくれろと師匠に頼み込んだそうだな?」

「師匠がそれを長次郎さんに言ったんですか?」

「うん、『私は女形になりたい、お里になりたいんだ・・・』と言ったそうじゃないか。それで教えてみたらこれがなかなか筋が良い。泣くように演じる事が出来ると、師匠はそう言った」

「師匠が・・・そんな事を」

「お前、俺が稽古でお里を演じていたとき、舞台の袖でセリフを語っていたろう?俺はお前の振りを見てみたい」

「お、俺・・・」

「亀吉、良かったな、水汲みの時、いつも後棒を担いだ甲斐があったじゃないか!」

女形は思いの外体力が要る、重い鬘を被って動かなくてはならない。亀吉はその体力を養うために、常に後棒を担いでいた。

「済まん晋作。俺、頑張るよ」

「よし、そうと決まれば通しの稽古だ。準備は良いか!」長次郎が言った。

「応!」

二十人の青年衆は一斉に持ち場に着いた。




                    4



〽︎鳥の声

鐘の音さへ

身に染みて

思ひ出すほど

涙が先へ

落ちて流るゝ

妹背の川を


「ヲゝこれはこれは沢市っつあん。今日は何と思ふてやら、三味線出して。よい機嫌じゃの。

ホホホホホ」

お謡いの後、亀吉はお里に成り切って演じ始めた。沢市は晋作が務める。

「ヲゝお里か。そなたアノ、おれが三味線弾くを、よい機嫌に見ゆるかや・・・」

夜な夜な外出するお里に盲目の夫沢市が、間男がいるのだろうと問い詰める場面、『沢市の段』である。

「・・・三つ違ひの兄さんと言ふて暮らしているうちに・・アゝ情けなや・・・お前の目を治さんと、この壺阪の観音様へ、明けの七つの鐘を聞き、そっと抜け出で、たゞ一人山路厭はず三年越し・・・他に男があるように今のお前のひと言が、私は腹が立つわいの」

お里は沢市のために壺阪の観音様へ祈願している事を明かし、沢市は誤解を詫びる。

「アゝコレ女房ども。何にも言はぬ、堪忍してたも。謝った、謝ったわいなう・・・」

お里は沢市に壺阪寺への参詣を勧め、夫婦連れ立って出かける。


「エゝ何のいな。私の体はコレイナアこれお前の体も同じこと。そんな愚痴を言はうより、ちやつと心を取り直し、観音様へともどもに、お願ひ申して下さんせ」

「イヤサアノ、女房ども、手を引いてたも。いざいざ・・・」



『山の段』


〽︎

憂きが情けか

情けが憂きか

チンツンチチゝンツチツンツン


露と消えゆく


テチン


我が身の上は


チンチンチンチリンツテチリツテン、トンシャン・・・



「サアサア沢市っつあん。ソレ観音様へ来たわいな」

「ハア、モウこゝが観音様か。ヤレヤレ有り難や有り難や。ハア、南無阿弥陀仏南無阿弥陀・・・」


夫婦して唱る詠歌の声澄みて、いと深々と殊勝なる


〽︎

岩を建て

水を湛えて

壺阪の


なかなか望みの叶わぬ沢市は、お里が目を離した隙に開眼の望みを諦め谷に身を投げる。


「アゝ悔やむまい嘆くまい。みな何事も、前の世の定まり事と諦めて、夫と共に死出の旅。急ぐは形見のこの杖を渡すは、この世を去りてゆく行き先、導き給へや。南無阿弥陀仏」


お里も、夫沢市の後を追って身を投げます。


そこへ観世音がいとも気高き姿を表し、倒れている夫婦に語り掛ける。


「いかに沢市、承れ。汝前世の業により盲となったり。しかも両人ながら今日に迫る命なれども、妻の貞心、または日頃念ずる功徳にて寿命を延ばし与うべし。この上はいよいよ信心渇仰して、三十三所を巡礼なし、仏恩報謝なし奉れ。こりゃお里、沢市」


そう宣いて観世音、かき消す如く失せ給う。

「ヤこなたは沢市どの。アゝコレこちの人、お前の目が明いてあるがな」

「・・・アゝ有り難や忝や。これよりすぐに、お礼参りは浮き木の亀、初めて拝む日の光は、年立ち返る心地ぞや」


これ偏に観音の、誓いの重きは岩を建て、水を湛えて、壺阪の庭の砂も浄土なるらん御示し。有り難かりける、御法なり・・・・




いつの間にか上の宮の拝殿の舞台には、二十の狐火が燃えていた。

その一つ一つに顔が浮かび上がる。


「あっ!、あれは行方不明の青年衆じゃないのか?」敦君が立ち上がって叫んだ。

狐火の中の顔は皆泣いていた、亀吉の演技に心打たれたのだ。

東の空が白々と明けて来る。それに伴って長次郎、晋作、亀吉・・・今まで拝殿で歌舞伎を演じていた若者達も消えて行った。

狐火が消えた後には、拝殿に額突いて男泣きに泣いている島の青年衆の姿があった。



                    5



翌々日、僕たち四人は島の人たちに見送られて船に乗り込んだ。

海は、来た時と同様に凪いでいた。

「いやあ、無事島歌舞伎が終わってよかったな!」敦君が言った。

「今後の島歌舞伎存続も決まったそうだよ」福君が答える。

「でも、あの白狐や亀吉達は一体なんだったんだろう?」

「あの狐は、自分でも言っていた通り熊野三神の使いだろう。きっと島歌舞伎が中断されないように現れたんだ」

「秦さんは歌舞伎には詳しいのですか?」

「いや、詳しいという程では無いけど・・・」

「亀吉はいつ頃の島人なんだろう?」

「歌舞伎『壺阪』の元となった浄瑠璃『観音霊場記』は明治十二年の初演だ。現行の『壺阪』になったのが明治二十年だから、それ以降の人だろうね」僕は曖昧な記憶を辿って答えた。

「でも、あの狐が言っていた『転倒』って何だったんだろう。秦さん取材したんだろう、何かわかった?」敦君が訊いてきた。

僕は島歌舞伎の合間を縫って青年達に取材をしていたのだ。僕は掻い摘んで説明した。

「転倒というのは、人の思考の逆転現象の事だね」

「逆転現象?」

「いいかい、彼らは狐火の中に囚われている内に一時的に神威を身に憑けたんだ。そして厄を祓う為に家々の門口に立った」

「そういえば、短冊付きの笹を持って家の前で口上を述べていたね」

「うん、そこで分かったのは神の力を持ってしても厄は祓えないという事だった」

「えっ、なぜ?厄を祓う為の行事でしょうに」

「そこが問題だ。例えば、死神がそこに居るのは人が死ぬからで、死神が居るから人が死ぬんじゃ無いという事なんだ」

「よくわからないなぁ?」

「つまりね、死神に人を殺す力は無い、という事なんだ。死神は単なる予兆なんだね」

「あっ、印みたいなもんか!」

「そう、同様に貧乏神も厄病神も印なんだね、人が貧乏になるような行いをするからそれを知らせて居るだけなんだ。それを人は神様の所為にする、本末転倒なんだ」

「分かった、それで『転倒』かぁ!」


「困った時の神頼み、喉元過ぎれば熱さを忘れ・・・ほんに人とは困ったものよのう」

今まで黙って僕らの話を聞いていた松岡先生が、妙に芝居掛かった台詞を吐いた。


長浜の市場で、僕はお礼を言って三人と別れた。

松岡先生が、『いい小説を書いてくれよ』と、また僕に言った。





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