止まった秋を越えて
『止まった秋を越えて』
― 土讃線被災運転士たちの記録 ―
著者
川原恒一
石原亮介
帯には、静かにこう書かれている。
「あの日、止まったのは列車だけではありませんでした。止まった時間を、私たちはどう生きたのか。その記録です。」
発売前から大きな反響を呼び、全国の書店で予約が相次ぐ。
鉄道ファンだけではない。
消防、警察、自治体、防災担当者、医療関係者、学校関係者、鉄道会社……。
「災害時の現場判断を学びたい」と、多くの人が手に取った。
出版記者会見
東京。
多くの報道陣が集まる。
前列には、JR各社の関係者や防災機関の職員の姿もある。
壇上へゆっくり歩いてくる二人。
かつて最前線で乗客を守った運転士と車掌も、今ではすっかり白髪が増えていた。
しかし、その背筋は今もまっすぐだった。
拍手の中、二人は席に着く。
川原が静かにマイクを握る。
「今日は、お忙しい中ありがとうございます。」
「この本は、英雄の物語ではありません。」
「私たちが経験した現実を書いた記録です。」
スクリーンには、表紙が映し出される。
そしてページがめくられ、事故当時の写真が映る。
紅葉の土讃線。
緊急地震速報。
避難する乗客。
そして――
黒く焼け焦げ、原形をとどめない南風11号。
会場は静まり返る。
川原は続ける。
「この写真を載せるべきか、本当に最後まで悩みました。」
「ですが、現実から目を背けてはいけないと思いました。」
「鉄道がどれほど多くの人の命を預かっているか。」
「災害は、一瞬でその日常を壊してしまうこと。」
「その現実を知っていただきたかったのです。」
続いて石原が話し始める。
「本の中には、助けられなかった命についても書いてあります。」
「私たちは、あの日の判断が完璧だったとは思っていません。」
「もっとできたことがあったのではないか。」
「今でも考えます。」
少し言葉を止める。
「ですが、その後悔も含めて残さなければ、この本を書く意味はありませんでした。」
記者の一人が質問する。
「一番書きたかったことは何ですか。」
川原は迷わず答える。
「真鍋悠真という運転士のことです。」
スクリーンに、一枚の写真が映る。
制服姿で笑う真鍋。
まだ事故の何年も前。
乗客に向かって笑顔で手を振る写真だった。
川原はゆっくり語る。
「真鍋は、誰よりも乗客を大切にする運転士でした。」
「運転技術だけではありません。」
「車内放送。」
「停車位置。」
「ブレーキの扱い。」
「子どもへの笑顔。」
「すべてが、お客様に安心して乗っていただくためでした。」
会場にはすすり泣きが聞こえ始める。
「そして最後まで、」
川原は少し目を閉じた。
「あいつは、」
「『先に子どもを出してください。』」
「そう叫び続けていました。」
長い沈黙。
誰もペンを動かさない。
会見の最後。
川原は立ち上がる。
石原も隣に立つ。
二人は報道陣をまっすぐ見つめた。
「災害は、本当に忘れた頃にやってきます。」
「その言葉を、どうか言い伝えではなく、自分自身への戒めとして心に留めてください。」
「訓練は無駄ではありません。」
「備えも無駄ではありません。」
「今日の一つひとつの積み重ねが、未来の誰かの命を救います。」
そして二人はゆっくり頭を下げた。
「最後に――」
「南海トラフ巨大地震で亡くなられた多くの御霊に、心から哀悼の意を表します。」
「そして、ご遺族の皆様に、深くお見舞い申し上げます。」
深々と一礼。
会場中の記者も立ち上がり、静かに頭を下げた。
拍手は起こらなかった。
その代わりに、会場は静かな祈りに包まれた。
その日出版された『止まった秋を越えて』は、単なる体験記ではなく、
「命を預かるとはどういうことか」
「災害にどう向き合うべきか」
を後世へ語り継ぐ一冊として、多くの人々の本棚に置かれ、鉄道会社や防災研修、学校教育の場でも長く読み継がれていくことになる。
そして、その記者会見場には――白田小百合の姿もあった。
かつて、津波で家族を失い、言葉を失った少女。
今は三十歳を過ぎ、二人の子どもの世話に追われながらも、阪神タイガースの球団職員として現場を支える、一人の大人の女性になっていた。
記者会見が終わり、川原と石原が深々と一礼したあと。
小百合は、ゆっくりと壇上へ進んだ。
手には、白い花束。
会場が静まり返る。
小百合は川原と石原の前で立ち止まり、丁寧に頭を下げた。
「本当に……ありがとうございました」
川原は少し驚いたように小百合を見た。
石原も、目を細める。
小百合は花束を差し出した。
「私は、海で家族を失いました」
「お二人は、山の線路でたくさんの命を守ろうとされました」
「場所は違っても、あの日を生きた者として……この本を残してくださったことに、心から感謝します」
川原は、花束を受け取る手を少し震わせた。
「こちらこそ……小百合さんの生き方に、何度も励まされました」
その言葉に、小百合は静かに微笑んだ。
*
その後、記者たちの前で、小百合もインタビューを受けた。
マイクを向けられた小百合は、少しだけ息を整える。
「私は、南海トラフ巨大地震で、父と母と兄を失いました」
会場の空気が変わる。
「その時、私はまだ子どもで……怖くて、悲しくて、言葉が出なくなりました」
小百合は目を伏せる。
「でも、白田栄子先生が私を抱きしめてくれました」
「血はつながっていません。でも、私にとっては本当のお母さんでした」
報道陣の中にも、涙を拭う者がいた。
「先生は、特別なことをしたとは言わなかったと思います」
「でも、毎日ご飯を作ってくれて、名前を呼んでくれて、タイガースの試合を一緒に見てくれて……」
小百合は少し笑った。
「私は、その日常に救われました」
*
「今は、阪神タイガースの球団職員として働いています」
「子どもたちを育てながら、忙しくて毎日バタバタです」
「でも、家に帰れば子どもの声がして、仕事へ行けば甲子園の歓声がある」
「それが、どれほどありがたいことか……私はあの日からずっと知っています」
小百合は、川原と石原の方を見た。
「この本は、鉄道の本であり、防災の本であり、命の本だと思います」
「そして、私にとっては……あの日を忘れず、それでも生きていくための本です」
*
最後に小百合は、静かに言った。
「災害は、忘れた頃にやってきます」
「でも、忘れないことはできます」
「備えることもできます」
「誰かの命を守ることもできます」
そして、少しだけ声を震わせた。
「私は、父と母と兄に言いたいです」
「白田先生にも言いたいです」
「私は、ちゃんと生きています」
「そして、これからも生きていきます」
*
会場は、しばらく拍手ができなかった。
誰もが、その言葉を受け止めていた。
やがて、静かな拍手が起こる。
それは大きな喝采ではなく、祈りに近い拍手だった。
川原は花束を胸に抱きながら、小百合へ深く頭を下げた。
石原も、涙をこらえながら言った。
「小百合さん」
「あなたも、あの日からずっと……走り続けてきたんですね」
小百合は、ゆっくりうなずいた。
「はい」
「海の声が聞こえなくても」
「私は、たくさんの人の声に支えられてきました」
その言葉に、会場全体が静かに涙した。
この記者会見は、本の出版発表であると同時に――
あの日を生き抜いた人々が、もう一度未来へ向かうための、小さな祈りの場になっていた。




