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海の声が聞こえなくても・土讃線が止まった秋  作者: リンダ


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美波の母との再会

 第26話

 美波の母との再会


 その日、仮設住宅に一人の女性が訪ねてきた。


 浜口直子。


 美波の母だった。


 直子もまた、津波で家を失い、夫・雄介を亡くしていた。

 そして、娘の美波も失った。


 白田先生が玄関を開けると、直子は小さな箱を胸に抱えて立っていた。


「小百合ちゃんに……渡したいものがあって」


 奥にいた小百合は、その声に体を固くした。


 美波。


 その名前を聞くだけで、胸の奥が痛んだ。


 *


 直子は、小百合の前に座った。


「小百合ちゃん」


 小百合は小さく頭を下げた。


 声は出なかった。


 直子は無理に笑おうとしたが、すぐに涙がこぼれた。


「ごめんね。美波、最後まで小百合ちゃんのこと、よう話しよった」


 小百合の指が震えた。


 直子は箱を開けた。


 中には、美波のスケッチブックが入っていた。


 表紙の角は少し擦れていた。

 けれど、見覚えのあるものだった。


 秘密基地で、海辺で、学校で。

 美波がいつも抱えていたスケッチブック。


 小百合は、恐る恐る手を伸ばした。


 *


 ページを開く。


 海の絵。


 穏やかな土佐湾。

 白い砂浜。

 赤い百合の花。

 秘密基地の流木。

 防波堤を走る隆。

 釣り竿を持った大翔。

 貝殻を並べる陽菜。

 潮だまりをのぞく蓮。


 そして、小百合。


 走っている小百合。

 カニに挟まれて叫ぶ小百合。

 タイガースの応援で両手を上げる小百合。

 防波堤で兄の悠斗におぶられている小百合。


 どの絵の中の小百合も、笑っていた。


 声が聞こえてきそうだった。


「美波……」


 小百合の唇が動いた。


 直子は泣きながら言った。


「あの子ね、小百合ちゃんを描くのが好きやったがよ」


 小百合はページをめくった。


 最後の方に、描きかけの絵があった。


 山の上で海を見ている小百合。


 まだ完成していない。


 でも、そこにいる小百合は、まっすぐ前を見ていた。


 その次のページ。


 そこには、たった一つの言葉が書かれていた。


 小百合ちゃんは、風みたい。


 小百合の目から、涙が落ちた。


 一滴。


 また一滴。


 スケッチブックに落ちそうになって、白田先生がそっとハンカチを差し出した。


 小百合はそれを受け取らず、スケッチブックを胸に抱いた。


「美波……」


 声が震えた。


「美波……ごめん……」


 直子が首を振った。


「謝らんでえい。美波は、小百合ちゃんが大好きやった」


 小百合は泣きながら首を振った。


「うち……美波を……助けられんかった……」


「違う」


 直子は小百合の手を握った。


「小百合ちゃんが悪いんやない。誰も悪くない。美波も、きっとそう言う」


 小百合は声を出して泣いた。


 白田先生が背中をさすり、直子も一緒に泣いた。


 親友を失った少女。

 娘を失った母。

 家族を失った先生。


 三人の泣き声が、小さな仮設住宅の部屋に静かに重なった。


 *


 その夜。


 小百合はノートを開いた。


 タイガースへの「ありがとう」の下に、新しい言葉を書いた。


 美波の絵を、忘れない。


 少し考えて、もう一行。


 私も、いつかまた風になれるかな。


 白田先生は、その文字を見て何も言わなかった。


 ただ、小百合の隣に座った。


 小百合はスケッチブックをそっと抱いた。


 美波はいない。


 もう、隣で笑ってはくれない。


 けれど、美波が見ていた小百合は、紙の中に残っていた。


 風みたいな小百合。


 走って、笑って、叫んでいた小百合。


 小百合はまだ、その自分に戻れるとは思えなかった。


 でも、美波が残してくれた絵の中に、その道しるべがあるような気がした。


 


直子は、涙を拭いながら、ふと思い出したように言った。


「美波はね、小百合ちゃんが歌う六甲おろしが大好きやったがよ」


 小百合は顔を上げた。


「……うちの?」


「うん。『小百合ちゃんが歌い出したら、家の中まで甲子園みたいになる』って。どんなに嫌なことがあっても、あれを聞いたら元気になれるって、よう話しよった」


 小百合の胸が、ぎゅっと痛くなった。


 美波が笑っていた顔が浮かぶ。


 秘密基地で、スケッチブックを抱えながら、少し困ったように笑う美波。


「小百合ちゃん、声大きいねえ」


 そう言いながら、いつも最後には一緒に笑ってくれた。


 小百合は、スケッチブックを胸に抱いたまま、小さく言った。


「……じゃあ」


 白田先生と直子が、小百合を見る。


「三人で、歌おうか」


 直子の目が潤んだ。


「えいが?」


 小百合はうなずいた。


「美波に……届くように」


 白田先生が、そっと小百合の背中に手を添えた。


「うん。歌おう」


 最初の声は、小さかった。


 震えていた。


 けれど、小百合は歌い始めた。


 白田先生が続いた。


 直子も、涙声で続いた。


 仮設住宅の小さな部屋に、歌声が響いた。


 薄い壁。

 小さな台所。

 段ボールの荷物。

 白い毛布。

 美波のスケッチブック。


 そこは甲子園球場ではなかった。


 けれど、その瞬間だけ、部屋の中には確かに黄色と黒の風が吹いた。


 田中家の食卓で響いていた小百合の声。


 美波が好きだった小百合の声。


 失われたと思っていた声が、涙に濡れながら、もう一度部屋の中に広がっていく。


 歌い終わったあと、小百合は泣きながら笑った。


「……美波、聞こえたろうか」


 直子は、小百合を抱きしめた。


「聞こえちゅう。絶対、聞こえちゅう」


 白田先生も二人を抱きしめた。


 仮設住宅の小さな部屋は、泣き声と歌声と、少しだけ戻ってきた小百合の声で満たされていた。


 まるでそこだけが、あの日の田中家であり、秘密基地であり、甲子園球場でもあるようだった。

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