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海の声が聞こえなくても・土讃線が止まった秋  作者: リンダ


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ノートに書いた最初の言葉

第25話

ノートに書いた最初の言葉


 仮設住宅の朝は、静かだった。


 まだ新しい畳の匂い。

 薄い壁越しに聞こえる隣の生活音。

 遠くで鳴るヘリの音。

 時々、風が鳴らすトタンの震え。


 白田先生は、簡単な朝ごはんを用意していた。


 小さな鍋で温めた汁物。

 少しのご飯。

 祖父母が持ってきてくれた野菜を刻んで入れた、薄い味の一品。


「小百合、朝ごはんできたよ」


 布団の中で、小百合がゆっくり起き上がる。


 まだ顔色はよくない。

 目の奥に残る疲れ。

 夜の夢の痕跡。


 それでも、小百合は座った。


「……おはよう、お母さん」


 かすれた声。


 それだけで、白田先生は胸がいっぱいになった。


「おはよう」


 先生は笑って見せた。


     *


 食卓は、田中家のようなにぎやかさはなかった。


 父も母も兄もいない。

 テレビのタイガース中継もない。

 笑い声も、言い合いもない。


 けれど、二人で向かい合って座る。


 それだけで、少しだけ“生活”に近づいていた。


「一口でいいからね」


 小百合はうなずいた。


 箸を持つ。


 手はまだ細い。


 震えも残っている。


 ひと口。


 ゆっくり噛む。


 飲み込む。


 白田先生は見守る。


 何も急がせない。


 ただ、そこにいる。


     *


 朝ごはんのあと、小百合は窓の近くに座った。


 外には、同じような仮設住宅が並んでいる。


 遠くに山。


 その向こうに、海がある。


 小百合は、そちらを見なかった。


 視線を少し外すだけで、体が固まる。


 呼吸が浅くなる。


 だから、見ない。


 今はまだ。


     *


 白田先生は、机の上に一冊のノートを置いた。


「小百合」


 小百合が振り向く。


「これ、使ってみる?」


 白いノート。


 何も書かれていないページ。


 小百合はそれを手に取った。


 軽い。


 でも、少しだけ怖かった。


「話せない時、あるよね」


 小百合はうなずく。


「その時は、ここに書けばいい」


 白田先生は優しく言った。


「うまく書けなくてもいい。言葉にならなくてもいい。なんでもいいから、ここに置いてみて」


 小百合はページをめくった。


 真っ白。


 何もない。


 だからこそ、何を書けばいいのかわからなかった。


 小百合は鉛筆を持った。


 けれど、動かなかった。


     *


 その日の午後。


 白田先生は、ひとりで携帯を見ていた。


 何度も書き直した文章。


 送ろうか迷ったメッセージ。


 そして、意を決して送った。


 阪神タイガースへのメッセージ。


 小百合のこと。


 失ったもの。


 今の状態。


 そして、ほんの少しの願い。


 「どうか、励ましていただけないでしょうか」


 送信ボタンを押したあと、先生は深く息をついた。


 期待しすぎてはいけない。


 そう思った。


 けれど、願わずにはいられなかった。


     *


 その夜だった。


 返信が届いた。


 しかも、一つではなかった。


 動画ファイルが、いくつも。


 白田先生は手が震えた。


「小百合」


 先生は、小百合を呼んだ。


 小百合はゆっくり近づいた。


「見てみようか」


 画面を開く。


 映ったのは、黄色と黒のユニフォーム。


 小百合の目が、少しだけ大きくなった。


     *


 一人目の選手が話し始めた。


『小百合ちゃんへ。つらいよね。でも、今は無理に元気にならなくていいです』


 次の選手。


『僕たちは小百合ちゃんのことを応援しています』


 また次の選手。


『また一緒にタイガースを応援しような』


 監督の声もあった。


『小百合さん。あなたの声は、必ず戻ってきます。焦らなくていい』


 コーチも、スタッフも。


 みんな、小百合の名前を呼んだ。


 「小百合ちゃん」


 その呼び方は、懐かしかった。


 田中家で、何度も呼ばれていた名前。


 小百合の目から、涙がこぼれた。


 静かに。


 でも、止まらずに。


     *


 動画が終わったあと、小百合は動かなかった。


 ただ、画面を見つめていた。


 白田先生は、隣に座ったまま何も言わなかった。


 やがて、小百合がノートを手に取った。


 ゆっくりと開く。


 白いページ。


 鉛筆を持つ。


 手が震える。


 一文字書いて、止まる。


 また書いて、止まる。


 涙が落ちて、紙ににじむ。


 それでも、小百合は書いた。


     *


 最初に書いた言葉。


「ありがとう」


 小さな文字。


 歪んだ線。


 でも、確かにそこにあった。


 小百合は、その下にもう一行書いた。


「また、応援したい」


 書き終えたあと、小百合は鉛筆を置いた。


 そして、ノートを見つめた。


 それは、声ではなかった。


 でも、確かに小百合の気持ちだった。


     *


 白田先生は、そっと小百合の頭に手を置いた。


「いいね」


 小百合は先生を見た。


 目はまだ赤い。


 でも、ほんの少しだけ、奥に光があった。


 暗闇の中の、小さな灯り。


 タイガースのユニフォームの色みたいな、あたたかい灯り。


     *


 その夜。


 小百合はノートを枕元に置いた。


 眠る前、そっと触れる。


 そこには、消えないものが残っていた。


 父も母も兄も美波も、戻らない。


 でも、言葉は戻り始めていた。


 ほんの少し。


 ほんのゆっくり。


 それでも確かに。


 白いページの上で、小百合の心は動き始めていた。


次回予告

第26話「美波の母との再会」


 小百合のもとに、美波の母から荷物が届けられる。


 その中には、美波のスケッチブックがあった。


 海の絵。

 秘密基地の絵。

 そして――小百合の絵。


 最後のページに残された、たった一つの言葉。


 それが、小百合の止まっていた時間に触れる。


 次回、

 第26話「美波の母との再会」


 親友が残したものが、小百合の心を揺らす。

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