消えた家
第14話
消えた家
その日、小百合はついに、下へ降りることを許された。
白田栄子先生が付き添い、数人の子どもたちと一緒に、かつて自分たちが暮らしていた町へ向かう。
「危ないところには近づかないこと」
「一人で離れないこと」
先生の声は、これまで以上に厳しかった。
それでも、小百合の足は止まらなかった。
心は、もうとっくにそこへ向かっていた。
*
坂を下りていく。
一歩、また一歩。
見えてくる景色が、変わっていく。
見慣れていたはずの町。
けれど――
それは、もう小百合の知っている町ではなかった。
道は、泥と瓦礫に埋もれていた。
電柱は倒れ、電線が地面を這っている。
車は横倒しになり、家の壁が剥がれ、屋根がどこかへ飛ばされている。
どこからが道で、どこからが家だったのかも、わからない。
「……」
小百合は立ち止まった。
言葉が出ない。
頭が追いつかない。
ただ、見ていることしかできなかった。
*
「小百合ちゃん……」
美波が小さく声をかける。
小百合は、ゆっくりと前を指さした。
「……あっち」
自分の家があった方向。
足を動かす。
重い。
でも、止まれない。
進まなければいけない気がした。
*
小学校の前を通った。
小百合が通っていた学校。
友達と笑い合った場所。
運動会で走った校庭。
文化祭で歌った教室。
そこは――
壊れていた。
窓ガラスはすべて割れ、校舎の中は泥と瓦礫でぐちゃぐちゃになっていた。
机や椅子が折れ、黒板が傾き、壁には水の跡がはっきりと残っている。
津波が、ここまで来た証拠だった。
「……うそやろ……」
誰かがつぶやいた。
小百合は、ただ見ていた。
何も感じられないまま。
*
さらに進む。
見慣れたはずの道を。
でも、その道はもうなかった。
そして――
たどり着いた。
自分の家があった場所に。
*
何も、なかった。
柱も。
壁も。
屋根も。
庭も。
玄関も。
全部、消えていた。
そこには、ただ泥と瓦礫が広がっているだけだった。
「……」
小百合は立ち尽くした。
ここにあった。
確かにあった。
家族四人で暮らしていた家。
朝ごはんの匂いがした台所。
タイガースの中継で盛り上がった居間。
兄とけんかした廊下。
母に怒られた玄関。
父が静かに座っていた場所。
全部、ここにあった。
なのに――
何もない。
*
「小百合ちゃん……」
美波の声が遠くに聞こえた。
小百合は一歩、前に出た。
泥の上に足を置く。
ぐしゃり、と音がした。
それが現実の音だった。
夢じゃない。
悪夢でもない。
現実だった。
「……ここ……」
声が出た。
でも、それは自分の声ではないみたいだった。
「うちの……家……」
その言葉は、風に消えた。
*
少し離れた場所に、鉄骨が残っていた。
ぐにゃりと曲がった鉄。
崩れた機械の残骸。
水産加工会社――田中水産の工場だった。
かつて、父と母と兄が働いていた場所。
小百合が、いつか自分も働きたいと夢見ていた場所。
そこには、骨組みだけが残されていた。
何もかもが、流されていた。
「……お父さん……」
小百合の口が動いた。
「お母さん……」
その先が続かなかった。
兄ちゃん、と言おうとした。
でも、言えなかった。
*
頭の中に、昨日までの景色がよみがえる。
夕ごはんの時間。
笑い声。
テレビの中のタイガース。
「打てー!」と叫んでいた自分。
母の料理。
父の静かな声。
兄のからかい。
それが、今目の前にある景色と結びつかなかった。
同じ場所だとは、思えなかった。
「……夢やろ……」
小百合はつぶやいた。
「悪い夢やろ……」
でも、どれだけ目を閉じても、景色は変わらなかった。
泥の匂い。
壊れたものの山。
何もない空間。
それが現実だった。
*
涙は出なかった。
泣けなかった。
泣くことすら、できなかった。
絶望と不安が、いっぺんに押し寄せてきた。
これからどうなるのか。
どこに帰ればいいのか。
父は。
母は。
兄は。
何もわからない。
何も残っていない。
小百合の中で、何かが完全に壊れた。
音もなく。
静かに。
*
白田先生がそっと肩に手を置いた。
「田中さん……」
小百合は振り向かなかった。
ただ、前を見ていた。
何もない場所を。
かつて、すべてがあった場所を。
帰る場所が、完全に消えた瞬間だった。
次回予告
第15話「名前を呼んでも」
避難所に戻った小百合。
それでも、心はあの場所に残されたままだった。
「お父さん……」
「お母さん……」
「兄ちゃん……」
何度呼んでも、返事はない。
それでも呼び続ける。
呼ぶことしかできないから。
そして、避難所に掲示される新たな情報。
「身元不明者」
「行方不明者」
「確認された遺体」
現実は、さらに残酷な形で迫ってくる。
次回、
第15話「名前を呼んでも」
届かない声が、心を引き裂く。




