津波警報
第12話
津波警報
避難所の朝は、朝とは呼べないものだった。
明るくなっても、誰も安心しなかった。
体育館のような広い建物の中に、人々が身を寄せ合っていた。毛布にくるまる人、泣き続ける人、壁にもたれて動かない人、誰かの名前を呼び続ける人。
水は足りない。
食べ物も足りない。
電気は来ない。
トイレの前には長い列ができていた。
子どもたちは、もう泣く力も少なくなっていた。
小百合は、美波の隣に座っていた。
手には、母が作ってくれた弁当箱。
まだ開けられない。
開けたら、昨日の朝に戻れなくなる気がした。
*
避難所の隅で、誰かが持ち込んだ小さなテレビがついた。
発電機につながれた画面には、途切れ途切れの映像が映っていた。
アナウンサーの声は震えていた。
「南海トラフ巨大地震による被害は、時間の経過とともにさらに拡大しています。現在確認されている死者は全国で五百八十六人、行方不明者は千人を超えています」
避難所が静まり返った。
「高知市桂浜周辺では、壊滅的な津波被害が確認されています」
桂浜。
その言葉に、小百合の体がびくっと震えた。
画面が切り替わった。
そこに映っていたのは、港近くの水産加工会社があった場所だった。
小百合の父が働いていた場所。
母が笑っていた場所。
兄が作業着姿で箱を運んでいた場所。
小百合が、いつか自分も働きたいと夢見ていた場所。
そこには、もう建物の形がなかった。
柱は折れ、壁は剥がれ、屋根はどこかへ消えていた。鉄骨が曲がり、瓦礫と泥と壊れた機械が、ぐちゃぐちゃに重なっていた。
小百合は画面を見つめた。
息をするのを忘れた。
声が出なかった。
「……あそこ……」
美波が泣きそうな声でつぶやいた。
小百合はうなずくこともできなかった。
*
ニュースは、さらに被害を伝え続けた。
各地で列車が脱線していた。
新幹線は緊急停止しようとしたが止まりきれず、対向列車の側面に衝突し、大破していた。
太平洋岸を走っていた列車は、津波の直撃を受けて横倒しになっていた。
津波に流された車から漏れたガソリンに火がつき、火災が発生していた。強風にあおられ、炎は海岸線に沿って広がっていく。
まるで、巨大な爆弾が上空で炸裂したかのようだった。
赤い炎。
黒い煙。
泥に沈んだ町。
折れた橋。
流された車。
屋根の上に乗り上げた船。
映像の中の日本は、小百合が知っている日本ではなかった。
誰かが避難所で泣き崩れた。
「うちの町や……」
別の誰かが叫んだ。
「家族がまだおるがや!」
白田栄子先生が、子どもたちの前に立った。
「見たくない子は、見なくていいです。無理に見ないで」
でも、小百合は目をそらせなかった。
見たくない。
でも見なければいけない気がした。
あそこに、父がいた。
母がいた。
兄がいた。
*
「お父さん……」
小百合の唇が動いた。
でも、声はほとんど出なかった。
「お母さん……」
次の言葉は、喉の奥で止まった。
兄ちゃん。
そう呼ぼうとした。
けれど、その声は出てこなかった。
昨日まで、町じゅうを明るくしていた小百合の声。
タイガースが点を取れば家を甲子園に変えた声。
運動会で校庭に響いた声。
美波と笑い、隆に怒り、兄にからかわれて言い返していた声。
その声が、消えていく。
美波が小百合の手を握った。
「小百合ちゃん……」
小百合は何も答えなかった。
ただ、弁当箱を抱きしめた。
*
津波警報は、まだ解除されなかった。
余震も続いていた。
外に出ることは許されず、情報は断片的にしか入ってこない。
避難所には、次々と人が運ばれてきた。
泥だらけの人。
靴を片方なくした人。
毛布にくるまれた高齢者。
名前を書いた紙を握りしめ、家族を探す人。
「田中勝さん、田中美紀さん、田中悠斗さんを知りませんか」
白田先生が、避難者の名簿を確認してくれていた。
けれど、返ってくる答えは同じだった。
「まだ確認できません」
「情報がありません」
「わかりません」
わからない。
その言葉が、小百合の胸に何度も刺さった。
わからないなら、生きているかもしれない。
でも、わからないから、どこにもいないのかもしれない。
希望と絶望が、同じ形をしていた。
*
昼になっても、小百合は弁当を開けなかった。
白田先生がそっと隣に座った。
「田中さん。少しでも食べよう」
小百合は首を横に振った。
「食べんと、体がもたん」
小百合は弁当箱を抱いたまま、かすかに唇を動かした。
「……お母さんの」
「うん」
「誕生日の……」
白田先生は言葉を詰まらせた。
小百合の弁当箱には、母のメモが貼られていた。
『小百合、9歳おめでとう。いっぱい食べて、いっぱい笑いなさい』
いっぱい笑いなさい。
その文字が、あまりにも残酷だった。
小百合は笑えなかった。
食べられなかった。
声も、出なかった。
*
避難所の外では、まだ防災無線が鳴っていた。
「津波警報が継続しています。海岸や河川には絶対に近づかないでください」
海岸。
河川。
近づかないでください。
小百合はぼんやりとその声を聞いていた。
海は、遊び場だった。
夢を見る場所だった。
美波と秘密基地を作った場所だった。
隆と走った場所だった。
父と母と兄が働く場所へ続く、家族のような存在だった。
その海が、すべてを奪った。
小百合の中で、何かが音もなく崩れていった。
*
夕方。
小百合は避難所の壁にもたれたまま、動かなかった。
美波が隣にいて、何度も声をかけた。
「小百合ちゃん」
返事はない。
「水、少し飲もう」
返事はない。
「手、冷たいよ」
小百合はただ、遠くを見ていた。
白田先生が毛布をかけた。
小百合は抵抗しなかった。
泣きもしなかった。
叫びもしなかった。
ただ、声が消えていた。
知りたくない現実が、少しずつ形になっていく。
水産加工会社の映像。
増えていく死者の数。
行方不明者の数。
倒れた列車。
燃える海岸線。
そして、どこにも見つからない父と母と兄。
小百合は、そのすべてを見てしまった。
九歳になったばかりの心には、大きすぎる現実だった。
次回予告
第13話「帰れない道」
津波警報が続く中、避難所には少しずつ被災者が集まってくる。
泥にまみれた人々。
家族を探す声。
貼り出される避難者名簿。
小百合は、父と母と兄の名前を探す。
けれど、どこにもない。
そして、見えてくる。
帰りたい場所へ続く道が、もう道ではなくなっていることを。
次回、
第13話「帰れない道」
家に帰る、という当たり前が消えていく。




