逃走編 3
ナイフが獣の上を走る。なんの抵抗もなく紙を切るような手軽さで肉を断つ。
私の頬から鼻の頭を通り反対側の頬まで、血がかかる。
その血の熱さは、生きているものの熱さで、血がかかった頬から、鳥肌が立つ。
私の、本能が、沸き立つ。
黒チーター(仮)が唸り声をあげて、自分の前足を穴から抜こうとする。
私は、手を伸ばす。
私の手を振り解こうと全力で暴れる獣を、両手でつかむ。獣の力は強いはずのに、風に揺れている木の葉をつかむぐらいの抵抗しか感じない。
血が滴る傷口に、キスをするように唇を当てた。
血が唇についた。驚くほど熱く、甘い。
舌で傷口を舐めると、獣の腕がビクリと震えた。あぁ、怖がっているのだと分かって優しく傷口にキスを繰り返す。食べたいのは本当だけど、痛めつけたいわけじゃない。
少しだけ、少しだけ。
息を吸うようにチュッと吸う。…このまま、喰ってしまいたい。
私は血に濡れた唇を噛み締める。理性で本能をねじ伏せる。私が、吸血鬼。人の血も獣の血もすする有害な魔物だと認めたくない。
獣人さんたちに、会いに行けないじゃん!
獣人さんたちに会いに行くという目標は、捨ててはいない。どれだけ血を飲みたくても、我慢してみせる。…ちょっとだけ、飲んでしまったが。…だいぶ、痩せ我慢だが。本能に平手打ちされて、理性がグラグラ揺れているが、グーで殴り返す。
震える手で、黒チーター(仮)の前足を離す。
脱兎のごとく、穴から前足が出ていく。すぐに走り去ったのか、木の根を後ろ足で蹴る音がした。
その音に、大きくため息をついた。よかった。
殺さなかった。その事に安堵した。自分を殺そうとした親は殺した。それは、全然後悔などないのに。カナヤの足を刺しても、当然だと思うのに。
矛盾している。
自分がわからなくて、混乱している。…でも、自分の心に正直に。吸血鬼である事を認めている。でも、抵抗もしている。
殺されそうなら、殺していい。でも、殺したくないという心も本心。カナヤは殺したいけど、襲ってきた獣を殺したくないのも本心。
あぁー。アッタマ痛くなってきた。私、理論的ではなくて、感覚派なのだ。
自分の心が一番手に余る。兄さんがいてくれれば私は兄さんのを一番に考えられるのに。
穴から出て、泥だらけの私は空を見上げて、紅い月と全く知らない満点の星空を見上げた。
ころころ変わる心を、持て余しながら。
口の中に残った血を転がしながら。




