238話 ある医師の日記
視線を感じる――
そんな申し出を何度も聞いた。同僚から、部下から、他の部門からも同じ報告が上がっていると聞いた。
私は医者で、診察結果を第一として、だからそれ以外を信用しない。全員の結果は問題なし。ただ、軽度の緊張や不安感だけが数値として表出していた。だから何時もこう伝えた。
気のせいだ、少し疲れているから休むといい。後は私が請け負う、と
それはある意味では都合がよかったからこそ無意識的に出て、そんな私の発言の意図を知らない誰もが感謝と休暇申請を口にした。
だけど、気のせいではなかった。皆の言葉が嘘ではないと知った私から余裕が消えた。
秒、分、時、日――時を刻むに連れより濃く、はっきりと。いや、分かっていた。認められなかった。そんな事がある訳がないと。
だが、確実に視線を感じる。光を受容する感覚器に映らない何かが、確実に。声が聞こえる。音を受容する感覚器が聞き取れない声を発する何かが、確実に。背後におぞましい何かを感じる。気配さえ感じさせない何かが確かに存在する。だが、どこにも証拠はない。見つからない。
そうだ。いる訳がない。ここは医療機関、最重要施設。無数の監視の目に今は複数の強面達が不審者の有無を肉眼と鍛えられた気配察知能力で探している。だから、アリの子一匹入り込めない。
疲れているんだ。私も疲れているから、だからそう必死で思い込もうとした。その矢先だった。
「なんで受け入れてくれないの?」
私が担当する伊佐凪竜一とルクセリアは異物を全く受け入れない強固な免疫システムを獲得している。いや、この言い方は正確ではないか。医学と科学を嘲笑う、免疫ではない別の何か。だけどその日、隠していた本音が口を突いてしまった。
「ま、真面に管理出来やしない……わ」
本来ならご法度。何せ、私の隣には彼がいるのだから。だから必死で、何とか取り繕った。
「いや、あの……善処しますけど、でもコレどうにもならなくて」
ベッドに寝転ぶ彼は申し訳なさそうだった。良く知っていた。彼は英雄と持ち上げられながらもどこか朴訥で、素朴で純朴で、要は真面目な人間。彼の心情を思えばこそ、私は今の今まで愚痴を封印してきた。全ては遅きに失した。
素直に謝罪すべきだ。彼の精神面を悪化させたとなれば他からどんな小言を言われるか分かったものではない。いや、そうじゃない――
だけど、口に出そうとして、何故か出せなかった。
『……』
背筋を何かが伝った。いや、触れた。急いで周囲を見回した。病室と廊下をつなぐ大きな扉、白い壁と天井に床、窓からは明るい陽射しが差し込み、カーテンがそよ風に揺れている。そして相も変わらず私を見つめる英雄。視界に映るのは何時も通りの見慣れた景色。だけど私はその時、微かだがはっきりと何かを感じた。意志。この場にいる彼以外の何者かの明確な意志を感じた。
最初は小さな小さなシミに近かった感覚が、今はっきりと目の前にある。だけど、だが不意に訪れた千歳一隅の好機を前に、無理やり抑え込んでいた暗い感情が頭をもたげる。
私は、平静を装いながら「何時もとは違う」モノを点滴に混入した。とある惑星において、極めて毒性が強いと知られる菌類から生成される劇毒。僅か一滴を川に流せば下流地域に住むあらゆる動物を殺傷する強力な毒性は、生成は勿論のこと製法を知る、書き記す、あるいは教え広めるだけでも重罪として裁かれる。当然ながら所持どころか星外への持ち出しも不可能なほど厳重な管理と監視下に置かれる。
それを持ち込んだ。全て、簡単だった。極普通の処置の一環と称し投与するのも。傍目に見ればその瞬間の私は極めて自然な振る舞いに映っただろうが、心臓は激しく鼓動し爆発しそうだった。だけど、目の前の信じ難い光景にまるで暴れ馬のように跳ね回る心臓はすとんと平静を取り戻した。
死ななかった。一滴で数十万数百数千、あるいはそれ以上を皆殺しにできる毒を更に数十倍に濃縮した劇毒を点滴されながら、彼は私にこう伝えた。
「何時もありがとうございます」
ハハ、と笑っていたと思う。予想通り、やはり何の意味もなかった。ただ、その日は何故か酷く茫然として、だから何時ものように疲れを装いながらしどろもどろに感謝の言葉を言っていた――と思う。
直後、私の心は闇の中にいた。いや、本当に闇だった。目の前は暗く何も見えず、ただ何十メートルか先に煌々とともる小さな赤い2つの光だけが存在する闇の中にいた。
再び激しく波打つ心臓と、獣のように荒くなる呼吸を無理やり抑えながら、私は獲物を狩る獣のように闇に溶けこもうと必死になっていた。そうしないと、私の居所を知られてしまえば命がないと直感した。
恐怖。闇の中、恐怖で足が竦み、動けなかった。こんな空間に放り込まれて平然としていられる人間などいやしない。悍ましく、暗く、冷たく、常に何かが自分を見つめている。
『愚か者』
闇からそんな言葉が聞こえた。私に向けて、はっきりと、少女の様な、大人の様な、人の様な、化け物の様な、遠いような、囁かれるような、そんな声に心と身体が狂わされ――
ふと気が付けば、私は闇から解放されていた。アレは一体何だんだろうと、身体が震える闇を思い出す。
もしやあの女の仕業か?と、考えた。何時も唐突に、こちらの事情なんてお構いなしに連絡を入れてくるあの忌々しい女の顔が浮かんで、直ぐに消えた。
あれは違う。睨みつけられた恐怖、闇の中に放り出された圧倒的な孤独感は今もなお私の体と心を蝕み、隙あらば闇の中に引きずり込もうと手ぐすねを引く。あれは人ならざる者の仕業だ。
椅子に体重を預け、ボケっと天井を眺め、机の端で冷めきった栄養ドリンクを飲み、乱雑に置かれた資料を一瞥し、大きくため息をつき、祈るように、必死で、そうであって欲しいと縋りながら夢、ゆめゆめ現実どっちだ私は一体いつ(日記はここで途切れている)




