02 過去の出来事
夕刻。
仕事を終えて帰路に就く。
私が暮らすのは、よそ者やならず者が多い最底辺の区画。
暗くなっても外を出歩いていたら、何が起こっても文句は言えないような場所である。
現在の住処はようやく雨風を凌げるようなあばら家だが、それでも一刻も早くそこに逃げ込まねばならなかった。
いくら髪で顔を隠しボロボロの服を纏っていようと、若い女が独り歩きをして無事でいられるとは思えない。
今にも崩れそうな家屋の三階に、その部屋はあった。
一階には口うるさい大家が住んでいる。
その機嫌を損ねないよう、ギシギシ鳴る階段をそろそろと登った。
建付けの悪いドアを開けると、すえた臭いが鼻についた。
その中では死んだ目をした女が、私を出迎えるでもなくぶつぶつと何事か呟いている。
彼女こそが、私と一緒に公爵家を放逐された母だ。
半年前に公爵夫人という地位を失って以来、こうしてほとんど意思の疎通ができない相手に変わってしまった。
美しかった容姿は、見る影もない。
「お母さま。またパンをお召しにならなかったのですか?」
朝置いていった固い黒パンが、テーブルの上にそのままの形で残されていた。
もはや生きる気力が湧かないのか、母は食事すら嫌っている。
生まれた時から絶えず美食に慣れ親しんできた母には、固くて酸味のある黒いパンはどうしても受け入れがたいのかもしれない。
だが、以前食べていたような白いパンは、巷では売られておらずお抱えのパン焼き職人を持つ一部の富裕層の贅沢品だ。
一介のお針子娘が手に入れられるような品では到底ない。
「食べなければお体を悪くします。どうかお食べになってください」
そう言って千切ったパンを口元に近づけてみるが、やせ衰えた腕のどこにそんな力が残っていたのか、不快なものを近づけるなと言わんばかりに跳ね除けられてしまった。
「****!」
それを契機に、置物のように固まっていた母が甲高い声で何事かを叫び始める。
私は周辺諸国のいくつかの言葉を話すことができるが、母の言葉の意味を理解することはできなかった。
時折、「お前のせいで」とか、「お前さえいなければ」と言った言葉がかろうじて判別できる。
私は落ちたパンを拾い、それで簡素な夕食を摂った。
そもそも公爵の娘である私がどうしてこんな生活をしているのか。
全ての始まりは、父が愛人とその娘を王都にある本宅に住まわせるという暴挙に出たことだった。
貴族が愛人を持つのはさして珍しいことではないが、それを己の夫人と一緒にタウンハウスに住まわせるというのは常識外れの蛮行と言えた。
勿論母も、そして私もそれだけはやめるよう父を諫めたが、その言葉が受け入れられることはなかった。
やがて屋敷に連れられてきたのは、茶色い髪に同じ色の目を持つ凡庸な女と、その女と同じ髪色ながら父と同じ青い目を持つアンだった。
彼女が父の子であることは明白だった。
なぜなら王族の血を引く父の持つ深い青はロイヤルブルーと呼ばれ、王家の血を受け継ぐ者以外には現れることのない格式高い色だからだ。
一方で父方の祖母から受け継いだ私の目は薄紫で、残念ながら王家の色を受け継ぐことはできなかった。
アンは貴族風にアンジェリカと名を改めると、理解できない手管でたちまち周囲の人々を掌握していった。
私の弟であり公爵家の跡継ぎであるレオンを筆頭に、次期宰相と呼び声高いリンデン伯爵の息子クリストフ。剣技に秀でた将軍の息子バーナード。隣国の王子のアルバート。そして私の婚約者だった王太子のライオネル。
特にこの五人のアンジェリカに対する心酔ぶりは目を見張るものがあった。
まるでおとぎ話に出てくる乙女に傅く騎士のごとく、全ての悪意からアンジェリカを守り、そしてアンジェリカの敵は即ち悪と断ずる入れ込みようだったのだ。
私は何度も、弟や幼馴染である彼らに彼女にばかり入れ込むべきではないと進言したのだが、その訴えが聞き入れられることはついぞなかった。
それどころか、アンジェリカに嫉妬しているから彼女を悪く言うのだろうという不名誉な疑いまでかけられた。
今思い返してみても、どうして彼らがあそこまでアンジェリカに肩入れしたのか不思議で仕方ない。
彼らは良くも悪くも疑り深い貴族の男で、家族にすらそうたやすくは心を許さない人たちだったというのに。
ともかく、そんなやり取りが続くうち私には妹に嫉妬して彼女に嫌がらせをしているという悪評まで立つようになった。
使用人たちもいつの間にかアンジェリカ親子に肩入れするようになっており、屋敷内での立場もどんどん悪くなっていった。
けれどそれでも、まさか生まれた頃から決まっていたライオネルとの婚約が破棄されるとは夢にも思っていなかった。
それどころか私は母の不義の子であるというあらぬ疑いをかけられ、こうして母共々市井に放逐されることとなったのだ。
今でも耳に残っている。
アンジェリカがこっそりと呟いた、「あんたが『悪役』だからいけないのよ」という言葉が。




